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オツベルと象:宮沢賢治の童話を読む |
「オツベルと象」は宮沢賢治の童話のなかでもわかりやすい作品だと思われている。そんなためか、この作品は賢治が生前に発表した数少ないもののひとつだし、また後になって教科書に取り上げられたりもした。 テーマは貪欲な人間による動物虐待と、その結果としての動物による復讐である。物語に出てくる白象は純真な性格で、何でもいとわずに、素直な気持ちでやり遂げる。貪欲なオッベルはそこにつけこんで白象をこき使い、そのうち食べるものもろくに与えなくなる。衰弱した白象が月の忠告に従い仲間の象たちに助けを求めると、事情を知って怒った仲間たちがオッベルのところに押しかけ、オッベルを踏み潰してしまうのである。 いくら相手が無知でお人よしな動物でも、そこにつけこんでひどい眼にあわせてはいけません、ひとりの生き物として大事に扱うことが大切です、でないと必ず報いをうけることになります、この童話はそんなメッセージを含んでいるのだと解釈されてきたし、実際子どもたちにもそのように言い聞かされてきた。 たしかにそんな側面があることは否めない。だがそれで終わらしてしまうにはもったいないほど、この童話は豊かなメッセージを含んでいる。叙述に漂う賢治らしいみずみずしさをおけば、この作品で賢治がこだわったのは正義ということだろう。 普通正義といえば人間社会を律する概念だ。それは人間相互の間、社会や国家のありようというものに関わっている。だから自然や動物界のことはとりあえず対象から外される。ところが賢治は正義の概念を拡大して、動物や自然をも取り込んだ全体的な世界において、正義はどのような形をとるべきか、それを問題にしていると思うのだ。 だからこの作品を、動物に仮託して人間社会の問題を扱っただけだと考えるのでは、賢治の理解としては狭すぎる。白象は白象そのものとして、賢治の正義と関わっているのだ。 この物語は「ある牛飼いがものがたる」という形をとっている。だから <オツベルときたら大したもんだ。稲扱(いねこき)器械の六台も据(す)えつけて、のんのんのんのんのんのんと、大そろしない音をたててやっている。> というふうに、日常会話の地の言葉遣いで語られていく。時には <オツベルかね、そのオツベルは、おれも云おうとしてたんだが、居なくなったよ。まあ落ちついてききたまえ。> といった風に、ぐっとくだけた調子になる。そんなオッベルのところへある日若い白象が一匹やってくる。白象はお人よしで、オッベルに頼まれるままどんな力仕事もこなしてしまう。欲張りなオッベルは喜んで、この白象を自分の財産にしようと決意する。 <どうだ、そうしてこの象は、もうオツベルの財産だ。いまに見たまえ、オツベルは、あの白象を、はたらかせるか、サーカス団に売りとばすか、どっちにしても万円以上もうけるぜ。> 最初の頃はオッベルも白象にやさしく振舞っていたが、そのうち白象をだまし、鎖と分胴をくくりつけて逃げられないようにする。その上少しづつ食べ物の量を減らしてゆき、最後にはほんの少しの草を食べさせただけで、白象をこき使うようになる。 <じっさい象はけいざいだよ。それというのもオツベルが、頭がよくてえらいためだ。オツベルときたら大したもんさ。> 白象はだんだん衰弱して、ひどい目にあっている自分の身の上を月に向かってつぶやくようになる。 <ある晩象は象小屋で、三把の藁をたべながら、十日の月を仰(あお)ぎ見て、 「苦しいです。サンタマリア。」と云ったということだ。 こいつを聞いたオツベルは、ことごと象につらくした。 ある晩、象は象小屋で、ふらふら倒(たお)れて地べたに座り、藁もたべずに、十一日の月を見て、 「もう、さようなら、サンタマリア。」と斯う言った。 「おや、何だって? さよならだ?」月が俄(にわ)かに象に訊(き)く。 「ええ、さよならです。サンタマリア。」 「何だい、なりばかり大きくて、からっきし意気地(いくじ)のないやつだなあ。仲間へ手紙を書いたらいいや。」月がわらって斯う云った。 「お筆も紙もありませんよう。」象は細ういきれいな声で、しくしくしくしく泣き出した。 「そら、これでしょう。」すぐ眼の前で、可愛(かあい)い子どもの声がした。象が頭を上げて見ると、赤い着物の童子が立って、硯(すずり)と紙を捧(ささ)げていた。象は早速手紙を書いた。 「ぼくはずいぶん眼にあっている。みんなで出て来て助けてくれ。」 童子はすぐに手紙をもって、林の方へあるいて行った。> 弱りきった白象に月が同情し、仲間に手紙を出して助けを呼ぶように忠告すると、どこからともなく赤衣の童子が現れて、その手紙を仲間のところへ運んでくれた。手紙を読んで白象の苦しみを知った仲間の象たちは、オッベルをやっつけて白象を救い出そうと、すさまじい勢いで出かけていくのである。 <「オツベルをやっつけよう」議長の象が高く叫(さけ)ぶと、 「おう、でかけよう。グララアガア、グララアガア。」みんながいちどに呼応する。 さあ、もうみんな、嵐(あらし)のように林の中をなきぬけて、グララアガア、グララアガア、野原の方へとんで行く。どいつもみんなきちがいだ。小さな木などは根こぎになり、藪(やぶ)や何かもめちゃめちゃだ。グワア グワア グワア グワア、花火みたいに野原の中へ飛び出した。それから、何の、走って、走って、とうとう向うの青くかすんだ野原のはてに、オツベルの邸(やしき)の黄いろな屋根を見附(みつ)けると、象はいちどに噴火(ふんか)した。 グララアガア、グララアガア。その時はちょうど一時半、オツベルは皮の寝台(しんだい)の上でひるねのさかりで、烏(からす)の夢(ゆめ)を見ていたもんだ。> オッベルのほうもさしものもの、驚き騒ぐ百姓たちを尻目に、象たちを迎え撃とうとする。もちろん白象を逃げられないようにしておくことを忘れない。 <塀の中にはオツベルが、たった一人で叫んでいる。百姓どもは眼もくらみ、そこらをうろうろするだけだ。そのうち外の象どもは、仲間のからだを台にして、いよいよ塀を越(こ)しかかる。だんだんにゅうと顔を出す。その皺(しわ)くちゃで灰いろの、大きな顔を見あげたとき、オツベルの犬は気絶した。さあ、オツベルは射(う)ちだした。六連発のピストルさ。ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ドーン、グララアガア、ところが弾丸(たま)は通らない。牙(きば)にあたればはねかえる。一疋(ぴき)なぞは斯(こ)う言った。 「なかなかこいつはうるさいねえ。ぱちぱち顔へあたるんだ。」> 結局オッベルは象たちの勢いにかなわない。最後には象に踏み潰されてペチャンコにされてしまうのだ。こうして白象を救い出した象の仲間たちは、オッベルのつけた鎖と銅を外して自由にしてやる。 <「まあ、よかったねやせたねえ。」みんなはしずかにそばにより、鎖と銅をはずしてやった。 「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。 おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら> これが物語の最後の言葉だ。白象はようやく開放されてうれしいはずなのに、喜ぶのではなくさびしそうに笑う。ひとつには自分が無知なためにひどい目にあったことが悲しいのであり、ふたつには自分のおかげで大変な騒ぎになってしまったことを反省したからだ、そうも読み取れる。 最後にある呼びかけのような言葉は、語り手である牛飼いが牛の動きを諌めているのかもしれない、あるいは聞き手である子どもに向かって呼びかけているのかもしれない。 |
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