宮沢賢治の世界
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セロ弾きのゴーシュ:宮沢賢治の童話を読む


宮沢賢治が音楽好きだったとこはよく知られている。レコードを収集しては、学生や友人に聞かせたり、また自分で楽器を演奏したりもした。そんななかでチェロは気に入ったようで、当時としては非常に高価だったこの楽器を購入したうえ、わざわざ上京して弾き方を習っている。もっともついに上達することはなかったが。

童話「セロ弾きのゴーシュ」は、こうした賢治自身の体験が踏まえられているのかもしれない。

町の活動写真館でセロを弾く係りのゴーシュは、下手なためにいつも楽長にいじめられていたが、ハレの音楽会を前にして、何とかうまく弾けるようになりたいと懸命に努力する。すると動物たちが次々とゴーシュを訪ねてきて、ゴーシュは知らず知らずのうちに、彼らと助け合いながら上達していくという物語である。

この物語の最大のテーマは、人間と動物との係わり合いのあり方である。ゴーシュは人間仲間の間ではいじめられてばかりだが、動物を相手にすると優越感を感じ、高飛車な態度をとる。次々と現れる動物を相手に、自分勝手な態度を取り、動物をいじめたりもするが、そのうちに自分が動物より強い立場にあり、彼らに対して与えるばかりではなく、動物によって助けられてもいるのだということに気づいていく。

こうした助け合いの中から、動物たちはゴーシュによって病気を癒され、ゴーシュの方は動物たちの助けでセロが上達する。その結果ゴーシュは楽団仲間を始め人間の世界でも一目置かれるようになる。つまり動物との助け合いが、ゴーシュを人間的に成長させるのだ。

物語はまず、セロ弾きのゴーシュがいかに下手で、そのために楽長に苛められている様子から始まる。ゴーシュは楽長にこういわれる。

<「セロっ。糸が合わない。困るなあ。ぼくはきみにドレミファを教えてまでいるひまはないんだがなあ。」

糸が合わないとは音程がとれないということで、音楽を演奏する上では致命的な欠陥だ。それだけではない

<「おいゴーシュ君。君には困るんだがなあ。表情ということがまるでできてない。怒(おこ)るも喜ぶも感情というものがさっぱり出ないんだ。それにどうしてもぴたっと外の楽器と合わないもなあ。いつでもきみだけとけた靴(くつ)のひもを引きずってみんなのあとをついてあるくようなんだ、困るよ、しっかりしてくれないとねえ。光輝(こうき)あるわが金星音楽団がきみ一人のために悪評をとるようなことでは、みんなへもまったく気の毒だからな。」>

ゴーシュの音には表情がなく、しかも他の楽器とテンポが合わない。このままではゴーシュのおかげで楽団全体が迷惑を蒙る、こんなことをゴーシュは散々いわれるのだ。

その晩からゴーシュの猛練習が始まる。ゴーシュは重いセロを担いで家に持ち帰り、一人で懸命に練習するのだ。

<それから頭を一つふって椅子(いす)へかけるとまるで虎(とら)みたいな勢(いきおい)でひるの譜を弾きはじめました。譜をめくりながら弾いては考え考えては弾き一生けん命しまいまで行くとまたはじめからなんべんもなんべんもごうごうごうごう弾きつづけました。
 夜中もとうにすぎてしまいはもうじぶんが弾いているのかもわからないようになって顔もまっ赤になり眼もまるで血走ってとても物凄(ものすご)い顔つきになりいまにも倒(たお)れるかと思うように見えました。

そんなゴーシュのところへ、毎晩いろいろな動物が訪ねてくる。最初の晩は三毛猫だ。三毛猫はゴーシュの音楽を聞くとよく眠れるから、是非トロイメライの曲を弾いてくれという。ゴーシュは無作法な三毛猫の様子が気に入らず、つっけんどんな受け答えをするが、そのうちインドの虎刈りという曲を嵐のような勢いで弾き始める。ところがこの曲は三毛猫の神経を刺激し、三毛猫は逃げ回ろうとする。そんな三毛猫にゴーシュは次のようにいうのだ。

<「どうだい。工合(ぐあい)をわるくしないかい。舌を出してごらん。」
 猫はばかにしたように尖(とが)った長い舌をベロリと出しました。
「ははあ、少し荒(あ)れたね。」セロ弾きは云いながらいきなりマッチを舌でシュッとすってじぶんのたばこへつけました。さあ猫は愕(おどろ)いたの何の舌を風車のようにふりまわしながら入り口の扉(と)へ行って頭でどんとぶっつかってはよろよろとしてまた戻(もど)って来てどんとぶっつかってはよろよろまた戻って来てまたぶっつかってはよろよろにげみちをこさえようとしました。
 ゴーシュはしばらく面白そうに見ていましたが
「出してやるよ。もう来るなよ。ばか。」
 セロ弾きは扉をあけて猫が風のように萱(かや)のなかを走って行くのを見てちょっとわらいました。それから、やっとせいせいしたというようにぐっすりねむりました。>

二日目の晩にはカッコウがやってくる。カッコウはドレミファを教えてくれという。

<「先生どうかドレミファを教えてください。わたしはついてうたいますから。」
「うるさいなあ。そら三べんだけ弾(ひ)いてやるからすんだらさっさと帰るんだぞ。」
 ゴーシュはセロを取り上げてボロンボロンと糸を合わせてドレミファソラシドとひきました。するとかっこうはあわてて羽をばたばたしました。
「ちがいます、ちがいます。そんなんでないんです。」
「うるさいなあ。ではおまえやってごらん。」
「こうですよ。」かっこうはからだをまえに曲げてしばらく構えてから
「かっこう」と一つなきました。
「何だい。それがドレミファかい。おまえたちには、それではドレミファも第六交響楽(こうきょうがく)も同じなんだな。」
「それはちがいます。」
「どうちがうんだ。」
「むずかしいのはこれをたくさん続けたのがあるんです。」
「つまりこうだろう。」セロ弾きはまたセロをとって、かっこうかっこうかっこうかっこうかっこうとつづけてひきました。
 するとかっこうはたいへんよろこんで途中(とちゅう)からかっこうかっこうかっこうかっこうとついて叫(さけ)びました。それももう一生けん命からだをまげていつまでも叫ぶのです。>

カッコウがいつまでもいつまでも歌い続けようとするので、ゴーシュは付き合うのがいやになり、驚かして窓から追い出してしまう。

三日目の晩には狸の子がやってくる。狸の子はゴーシュのセロに合わせて太鼓を叩きたいという。一緒に演奏していると、狸の子はゴーシュが二番目の糸を弾くときに遅れると指摘する、こんな具体的な批評をもらって、ゴーシュは自分でそれを直せるようになる。

四日目の晩には野鼠の母子がやってくる。母親は子どもの病気を治したいたら、ゴーシュにセロを弾いて欲しいとたのむ。驚いたゴーシュが訳を聞くと、ゴーシュの音楽を聞いたおかげでたくさんの動物たちの病気が治ったというのだ。ゴーシュは半信半疑のまま、ではセロを弾いてやろうという。

<「ああそうか。おれのセロの音がごうごうひびくと、それがあんまの代りになっておまえたちの病気がなおるというのか。よし。わかったよ。やってやろう。」ゴーシュはちょっとギウギウと糸を合せてそれからいきなりのねずみのこどもをつまんでセロの孔(あな)から中へ入れてしまいました。>

ゴーシュはゴーゴーとものすごい音をたててセロを弾き、その音があまりにすさまじいので野鼠は苦しそうにバタバタするが、不思議なことに病気が治ってしまう。何度も頭を下げる野鼠の母親を見ている間に、ゴーシュはなんだか気の毒に感じたのだった。

動物の訪問はこれが最後で、その後6日間ゴーシュは一人で練習する。そしてハレ舞台の当日、ゴーシュは見事に演奏して、聴衆や仲間から評価されるのだ。

<その晩遅(おそ)くゴーシュは自分のうちへ帰って来ました。
 そしてまた水をがぶがぶ呑(の)みました。それから窓をあけていつかかっこうの飛んで行ったと思った遠くのそらをながめながら
「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」と云いました。>

一人で練習していた6日間、ゴーシュはおそらく動物たちとのやりとりを思い出しながら練習したのだろう。それが成功に結びついたことを改めて感じたので、こんな感謝の言葉につながったのだろう。カッコウの名前しかでてこないからといって、他の動物が無視されていたわけではないと思う。





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