宮沢賢治の世界
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鹿踊りのはじまり:宮澤賢治の童話を読む


宮沢賢治の童話「鹿踊りのはじまり」は、自然のなかで繰り広げられる動物の営みと、それを見つめる人間との関わり方について描いたものだ。

この関わり方は、一方通行の性質を持っている。動物である鹿たちは、自然の一部として、人間の存在を感ぜずに済む範囲において、のびのびとかつ安心しきって、生きる喜びを歌い上げる。それを見ている人間は、そのすばらしい営みに自然の豊かさ暖かさを感じ、自分もそうでありたいと願う。だがその願いを顕在化させて、鹿の目の前に姿を現した瞬間、鹿たちは混乱して、一目散に逃げ去ってしまうのである。

童話であるから、賢治には人間を鹿たちの踊りの輪に加わらせる工夫もありえただろう。だがあえてそうせず、鹿たちは逃げ去り、人間だけがひとりその場に残されるという結末を選んだ。

童話全体は美しい言葉のリズムに満ちており、それだけでも読んで楽しい作品だから、結末が動物と人間との融和といったハッピーエンドになっていないからといって、この作品の美しさが大きく損なわれるわけではない。だが賢治はあえて、人間と鹿を含めた自然との間に、一種の断絶を差し挟んだ。

そこに賢治の特別な意図を読みとろうとすることは、無益な試みではない。ここではその読み取りの作業を行ってみたい。

<そのとき西(にし)のぎらぎらのちぢれた雲(くも)のあひだから、夕陽(ゆふひ)は赤(あか)くなゝめに苔(こけ)の野原(のはら)に注(そゝ)ぎ、すすきはみんな白(しろ)い火(ひ)のやうにゆれて光(ひか)りました。わたくしが疲(つか)れてそこに睡(ねむ)りますと、ざあざあ吹(ふ)いてゐた風(かぜ)が、だんだん人(ひと)のことばにきこえ、やがてそれは、いま北上(きたかみ)の山(やま)の方(はう)や、野原(のはら)に行(おこな)はれてゐた鹿踊(しゝおど)りの、ほんたうの精神(せいしん)を語(かた)りました。

物語はこのような書き出しで始まる。語り手はこの物語を、風から聞いたといっている。語り手が北上の自然の中に溶け込んでうつらうつらとしている間、風の音が人の言葉に聞こえ、それが鹿踊りの本当の精神を語ってくれたという。

語り手は物語を語り終わったあとでも、「わたくしはこのはなしをすきとほつた秋(あき)の風(かぜ)から聞(き)いたのです。」といっている。つまり物語の真の語り手は、これを読者に向かって語っている「わたし」ではなく、北上の山の中を吹いていた「すきとほった風」、つまり自然の精霊というのだ。

こうした言葉から、読者はこの物語が、自然についての、自然そのものによる語りかけなのだと、受け入れることが出来るだろう。ではその自然とはどんな相貌を呈し、それに対して人間はどんなかかわり方が出来るのだろう。

嘉十は北上の野原を耕している農民だ。あるとき脚に怪我をしたので、温泉まで療養に出かける。山道を歩いている途中、お昼ご飯に栃の実の団子を食べたところ、あまりおなかがすいていなかったので、食べ残した団子を置いていくことにした。鹿に食べてもらおうと思ったのだ。

<「こいづば鹿(しか)さ呉(け)でやべか。それ、鹿(しか)、来(き)て喰(け)」と嘉十(かじふ)はひとりごとのやうに言(い)つて、それをうめばちさうの白(しろ)い花(はな)の下(した)に置(お)きました。

再び歩き出した嘉十は、さっきのところに手ぬぐいを忘れてきたことに気づき、戻る途中に、五六疋の鹿の気配を感じる。

<鹿(しか)が少(すくな)くても五六疋(ぴき)、湿(しめ)つぽいはなづらをずうつと延(の)ばして、しづかに歩(ある)いてゐるらしいのでした。
 嘉十(かじふ)はすすきに触(ふ)れないやうに気(き)を付(つ)けながら、爪立(つまだ)てをして、そつと苔(こけ)を踏(ふ)んでそつちの方(はう)へ行(い)きました。
 たしかに鹿(しか)はさつきの栃(とち)の団子(だんご)にやつてきたのでした。
「はあ、鹿等(しかだ)あ、すぐに来(き)たもな。」と嘉十(かじふ)は咽喉(のど)の中(なか)で、笑(わら)ひながらつぶやきました。そしてからだをかゞめて、そろりそろりと、そつちに近(ちか)よつて行(ゆ)きました。
 一むらのすすきの陰(かげ)から、嘉十(かじふ)はちよつと顔(かほ)をだして、びつくりしてまたひつ込(こ)めました。六疋(ぴき)ばかりの鹿(しか)が、さつきの芝原(しばはら)を、ぐるぐるぐるぐる環(わ)になつて廻(まは)つてゐるのでした。嘉十(かじふ)はすすきの隙間(すきま)から、息(いき)をこらしてのぞきました。
 太陽(たいやう)が、ちやうど一本(いつぽん)のはんのきの頂(いたゞき)にかかつてゐましたので、その梢(こずゑ)はあやしく青(あを)くひかり、まるで鹿(しか)の群(むれ)を見(み)おろしてぢつと立(た)つてゐる青(あを)いいきもののやうにおもはれました。すすきの穂(ほ)も、一本(いつぽん)づつ銀(ぎん)いろにかがやき、鹿(しか)の毛並(けなみ)がことにその日(ひ)はりつぱでした。
 嘉十(かじふ)はよろこんで、そつと片膝(かたひざ)をついてそれに見(み)とれました。

嘉十が息を潜めてみていると、鹿たちは輪になって何かを伺っているように見える。輪の中には嘉十がおいてきた栃の実の団子があるが、鹿たちが気にしているのは、その傍らに落ちている手ぬぐいのほうだった。

どうやら鹿たちは、栃の実の傍らに置いてある手ぬぐいを、化け物か何かではないかと、大いに不安がっているようなのだ。そのうち、嘉十には鹿の話し声が聞こえてきた。

<嘉十(かじふ)はほんたうにじぶんの耳(みゝ)を疑(うたが)ひました。それは鹿(しか)のことばがきこえてきたからです。
「ぢや、おれ行(い)つて見(み)で来(こ)べが。」
「うんにや、危(あぶ)ないじや。も少(すこ)し見(み)でべ。」
こんなことばもきこえました。
「何時(いつ)だがの狐(きつね)みだいに口発破(くちはつぱ)などさ罹(かゝ)つてあ、つまらないもな、高(たか)で栃(とち)の団子(だんご)などでよ。」
「そだそだ、全(まつた)ぐだ。」
こんなことばも聞(き)きました。
「生(い)ぎものだがも知(し)れないじやい。」
「うん。生(い)ぎものらしどごもあるな。」
こんなことばも聞(きこ)えました。そのうちにたうたう一疋(ぴき)が、いかにも決心(けつしん)したらしく、せなかをまつすぐにして環(わ)からはなれて、まんなかの方(はう)に進(すゝ)み出(で)ました。
 みんなは停(とま)つてそれを見(み)てゐます。
 進(すゝ)んで行(い)つた鹿(しか)は、首(くび)をあらんかぎり延(の)ばし、四本(しほん)の脚(あし)を引(ひ)きしめ引(ひ)きしめそろりそろりと手拭(てぬぐひ)に近(ちか)づいて行(い)きましたが、俄(には)かにひどく飛(と)びあがつて、一目散(もくさん)に遁(に)げ戻(もど)つてきました。廻(まは)りの五疋(ひき)も一ぺんにぱつと四方(しはう)へちらけやうとしましたが、はじめの鹿(しか)が、ぴたりととまりましたのでやつと安心(あんしん)して、のそのそ戻(もど)つてその鹿(しか)の前(まへ)に集(あつ)まりました。
「なぢよだた。なにだた、あの白(しろ)い長(なが)いやづあ。」
「縦(たて)に皺(しは)の寄(よ)つたもんだけあな。」
「そだら生(い)ぎものだないがべ、やつぱり蕈(きのこ)などだべが。毒蕈(ぶすきのこ)だべ。」
「うんにや。きのごだない。やつぱり生(い)ぎものらし。」
「さうが。生(い)ぎもので皺(しわ)うんと寄(よ)つてらば、年老(としよ)りだな。」
「うん年老(としよ)りの番兵(ばんぺい)だ。ううはははは。」
「ふふふ青白(あをじろ)の番兵(ばんぺい)だ。」
「ううははは、青(あを)じろ番兵(ばんぺい)だ。」
「こんどおれ行(い)つて見(み)べが。」
「行(い)つてみろ、大丈夫(だいじやうぶ)だ。」
「喰(く)つつがないが。」
「うんにや、大丈夫(だいじやうぶ)だ。」
そこでまた一疋(ぴき)が、そろりそろりと進(すゝ)んで行(い)きました。

団子は食べたいが、得体の知れないものがそばにいて、うっかり近づいたらどんな目にあうかわからない、鹿たちのこんな臆病な様子が伝わってくる。

ともあれ最初の鹿の行動がきっかけになって、ほかの五匹の鹿たちも、かわるがわる手ぬぐいに近寄って、その正体を確かめようとする。同じような描写が次々と重なりながら、先へ進むにしたがって次第に事情が明らかになっていく。このように螺旋状に物語が進行していくところは、賢治に特徴的な描写法だ。

鹿たちはついに、この青白い番兵が無害であることを納得する。番兵が無害であれば、安心して栃の実の団子を食べることが出来る。鹿たちの表情は一気に輝きだす。

<「きつともて、こいづあ大きな蝸牛(なめくづら)の旱(ひ)からびだのだな。」
「さあ、いゝが、おれ歌(うだ)うだうはんてみんな廻(ま)れ。」
 その鹿(しか)はみんなのなかにはいつてうたひだし、みんなはぐるぐるぐるぐる手拭(てぬぐひ)をまはりはじめました。
「のはらのまん中(なか)の めつけもの
 すつこんすつこの 栃(とち)だんご
 栃(とち)のだんごは   結構(けつこう)だが
 となりにいからだ ふんながす
 青(あを)じろ番兵(ばんぺ)は   気(き)にかがる。
  青(あお)じろ番兵(ばんぺ)は   ふんにやふにや
 吠(ほ)えるもさないば 泣(な)ぐもさない
 瘠(や)せで長(なが)くて   ぶぢぶぢで
 どごが口(くぢ)だが   あだまだが
 ひでりあがりの  なめぐぢら。」

鹿たちは輪を作って踊りながら、手ぬぐいを角でつついて破った後、栃の実の団子を分け合って食べる。こうしてすっかり満足した鹿たちは、輪を作ったまま風のように踊り始める。そして踊りながら鹿たちは水晶の笛のような声で歌う。

<鹿(しか)はそれからみんな、みぢかく笛(ふゑ)のやうに鳴(な)いてはねあがり、はげしくはげしくまはりました。
 北(きた)から冷(つめ)たい風(かぜ)が来(き)て、ひゆうと鳴(な)り、はんの木(き)はほんたうに砕(くだ)けた鉄(てつ)の鏡(かゞみ)のやうにかゞやき、かちんかちんと葉(は)と葉(は)がすれあつて音(おと)をたてたやうにさへおもはれ、すすきの穂(ほ)までが鹿(しか)にまぢつて一しよにぐるぐるめぐつてゐるやうに見(み)えました。
 嘉十(かじふ)はもうまつたくじぶんと鹿(しか)とのちがひを忘(わす)れて、
「ホウ、やれ、やれい。」と叫(さけ)びながらすすきのかげから飛(と)び出(だ)しました。

すすきのかげから飛び出した嘉十は、鹿たちの踊りに心を奪われ、自分が鹿たちと一体になっていると感じていたに違いない。普通の童話ならここで、嘉十は鹿たちの輪に迎えられ、一緒に踊るという結末をおいてもおかしくない。しかし賢治はそうしなかった。

<鹿(しか)はおどろいて一度(いちど)に竿(さを)のやうに立(た)ちあがり、それからはやてに吹(ふ)かれた木(き)の葉(は)のやうに、からだを斜(なゝ)めにして逃(に)げ出(だ)しました。銀(ぎん)のすすきの波(なみ)をわけ、かゞやく夕陽(ゆふひ)の流(なが)れをみだしてはるかにはるかに遁(に)げて行(い)き、そのとほつたあとのすすきは静(しづ)かな湖(みづうみ)の水脈(みを)のやうにいつまでもぎらぎら光(ひか)つて居(を)りました。
 そこで嘉十(かじふ)はちよつとにが笑(わら)ひをしながら、泥(どろ)のついて穴(あな)のあいた手拭(てぬぐひ)をひろつてじぶんもまた西(にし)の方(はう)へ歩(ある)きはじめたのです。
 それから、さうさう、苔(こけ)の野原(のはら)の夕陽(ゆふひ)の中(なか)で、わたくしはこのはなしをすきとほつた秋(あき)の風(かぜ)から聞(き)いたのです。

これがこの童話の結末部である。嘉十と鹿たちはついに交わることなく、それぞれ違った方向へ去っていく。

この結末についてはさまざまな解釈が成り立つだろう。春と修羅を援用しながら、世界が輝きに満ちた春のさなかにいるに関わらず、自分はその中に入り込むことができず、一人の修羅として孤独に生きねばならないという、賢治の強烈な疎外感を見る見方も成り立ちうる。

どんな解釈をとるにせよ、この作品は類まれな美しさを持っている。その美しさは、国籍や言語も超越したものだ。

(門屋光昭によれば、この物語の中には南部地方の民衆芸能 鹿踊りの光景が盛り込まれているという。鹿たちが歌いながら踊るシーンには、その芸能の精神が反響しているということらしい。また見田宗助によれば、アメリカのアパッチ族の人も、この物語に深い感動を示したということだ。この物語に民族を超えた普遍性がこもっているということか。)





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