日本語と日本文化


おきなぐさ:宮沢賢治の童話を読む


「おきなぐさ」は、宮沢賢治の童話の中で最も美しい作品といってよい。語り手がおきなぐさの別名というか、イーハトーブと思われる「わたしどもの方」での「うずのしゅげ」という呼び方を紹介しつつ、おきなぐさとひばりの対話をおいかけながら、おきな草がやがて実を結び、それらが初夏の風に乗って飛び去っていくさまを描いている。

実に包まれた種が新しい命をはぐくむのと引き換えに、親としてのおきな草は、天国へと召されていくのであるが、それは何も悲しむべきことではない。命のあるものはすべて、この世に生まれてひとときの生きる喜びを謳歌した後、自分の子どもたちに次の時代を託して死んでいく定めにある。自分は個体としては死滅するが、子孫たちの記憶の中で永遠に生き続ける。

こういうと、この作品があたかも教訓を目的に書かれたと解釈されるかもしれない。たしかに教訓めいた匂いがしないではない。とくに最後の部分などは、あってもなくても全体に影響しないような付け足しともいえるし、かえってこの部分があるために、教訓臭さが強まってもいる。

だがその教訓の匂いは、語り手が発する口臭のようなものと考えてよい。物語の主人公たちには、まったくそんな意図はない。彼らの感じたり考えたりすることは、まったく無邪気なことばかりなのであり、その無邪気な事柄を無邪気な言葉で言い表しているだけである。この無邪気な言葉使いが、物語をすばらしい輝きで包んでいるのである。

この物語は、語り手の次のような言葉から始まる。

<うずのしゅげを知っていますか。
 うずのしゅげは、植物学(しょくぶつがく)ではおきなぐさと呼(よ)ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若(わか)い花をあらわさないようにおもいます。
 そんならうずのしゅげとはなんのことかと言(い)われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。
 それはたとえば私どもの方で、ねこやなぎの花芽(はなめ)をべんべろと言(い)いますが、そのべんべろがなんのことかわかったようなわからないような気がするのと全(まった)くおなじです。とにかくべんべろという語(ことば)のひびきの中に、あの柳(やなぎ)の花芽(はなめ)の銀(ぎん)びろうどのこころもち、なめらかな春のはじめの光のぐあいが実(じつ)にはっきり出ているように、うずのしゅげというときは、あの毛※科(もうこんか)のおきなぐさの黒朱子(くろじゅす)の花びら、青じろいやはり銀(ぎん)びろうどの刻(きざ)みのある葉(は)、それから六月のつやつや光る冠毛(かんもう)がみなはっきりと眼(め)にうかびます。>

こどもたちは、自分の身の回りの世界のことを、自分が生まれ育った土地の方言を通じて身に着けていく。うずのしゅげもそうした方言のひとつなのだろう。この花からこどもたちが受け取った感覚や印象の思い出はみなこの言葉と結びついている。この言葉を聞くとだから、こどもたちは「青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉や、六月のつやつや光る冠毛」を自然と思い出すのだ。

おきなぐさという名は、植物学上の名であり、いわば標準語のようなものである。その言葉によっても、人は小さな子どもの頃に見たり感じたりしたことを思い出せるかも知れないが、それは「うずのしゅげ」という言葉が連想させるものとは違っている。うずのしゅげという言葉にある生き生きとした体験が、科学の言葉によっては必ずしも感じられないこともあるのだ。

そんなうずのしゅげを土地の子どもで嫌いなものはない。語り手はアリにも聞いたところ、アリも大好きですと答える。そしてアリは人間が見下ろすと黒く見えるあの花びらを、真っ赤に見えるという。語り手は始め不思議に感じるが、アリのように下から見上げると、うずのしゅげの花弁が太陽の光を通すことで赤く見えるのかも見知れないと思い直す。

こうして語り手は、自分がウズノシュゲに出会ったときの思い出を語り始めるのだ。

<私は去年(きょねん)のちょうど今ごろの風のすきとおったある日のひるまを思い出します。
 それは小岩井農場(こいわいのうじょう)の南、あのゆるやかな七つ森のいちばん西のはずれの西がわでした。かれ草の中に二本のうずのしゅげが、もうその黒いやわらかな花をつけていました。
 まばゆい白い雲が小さな小さなきれになって砕(くだ)けてみだれて、空をいっぱい東の方へどんどんどんどん飛(と)びました。
 お日さまは何べんも雲にかくされて銀(ぎん)の鏡(かがみ)のように白く光ったり、またかがやいて大きな宝石(ほうせき)のように蒼(あお)ぞらの淵(ふち)にかかったりしました。
 山脈(さんみゃく)の雪はまっ白に燃(も)え、眼(め)の前の野原は黄(き)いろや茶の縞(しま)になってあちこち掘(ほ)り起(お)こされた畑(はたけ)は鳶(とび)いろの四角(しかく)なきれをあてたように見えたりしました。>

初春の息吹を感じさせるこのすばらしい描写に続いて、語り手はふたつのおきなぐさが互いに交し合う言葉を紹介していく。おきなぐさたちは雲の動きを夢中になって見つめている。

<おきなぐさはその変幻(へんげん)の光の奇術(トリック)の中で夢(ゆめ)よりもしずかに話しました。
 「ねえ、雲がまたお日さんにかかるよ。そら向(む)こうの畑(はたけ)がもう陰(かげ)になった」
 「走って来る、早いねえ、もうから松(まつ)も暗(くら)くなった。もう越(こ)えた」
 「来た、来た。おおくらい。急(きゅう)にあたりが青くしんとなった」
 「うん、だけどもう雲が半分お日さんの下をくぐってしまったよ。すぐ明るくなるんだよ」
 「もう出る。そら、ああ明るくなった」
 「だめだい。また来るよ、そら、ね、もう向(む)こうのポプラの木が黒くなったろう」
 「うん。まるでまわり燈籠(どうろう)のようだねえ」
 「おい、ごらん。山の雪の上でも雲のかげがすべってるよ。あすこ。そら。ここよりも動(うご)きようがおそいねえ」
 「もうおりて来る。ああこんどは早い早い、まるで落(お)ちて来るようだ。もうふもとまで来ちゃった。おや、どこへ行ったんだろう、見えなくなってしまった」>

この場面は「やまなし」という童話の中で、水の中にいる二匹のカニの兄弟が、水面をみながら泡の動きを不思議がっているところとよく似ている。小さな生き物たちにとって、大きな自然がどのように見えるか。賢治はそれを賢治なりの想像力で描いている。先のアリの見方といい、おきなぐさの雲の見方といい、普通の大人の感性ではなかなか思いつかないことでも、こどもなら分ってくれるだろう。賢治はそう思っていたのではないか。

そのうち西の風に乗ってひばりがやってくる。

<「おや、ひばりさん、いらっしゃい。今日なんか高いとこは風が強いでしょうね」
 「ええ、ひどい風ですよ。大きく口をあくと風が僕(ぼく)のからだをまるで麦酒瓶(ビールびん)のようにボウと鳴らして行くくらいですからね。わめくも歌うも容易(ようい)のこっちゃありませんよ」
 「そうでしょうね。だけどここから見ているとほんとうに風はおもしろそうですよ。僕(ぼく)たちも一ぺん飛(と)んでみたいなあ」
 「飛(と)べるどこじゃない。もう二か月お待(ま)ちなさい。いやでも飛(と)ばなくちゃなりません」>

ひばりはおきなぐさの習性をよく知っていて、初夏になれば実が熟し、それが風を受けて飛んでいくことを予見しているのだ。だからひばりのように風に乗って飛びたいというおきなぐさたちに、二ヶ月待ちなさいと忠告する。

そして二ヶ月たった初夏のある日、ふたたびひばりとであったおきなぐさたちは、自分たちの実が熟して、ひばりの予言したとおり、いよいよ南の暖かい風に乗って、飛んでいくのだということを自覚する。

<春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛(ぎんもう)の房(ふさ)にかわっていました。野原のポプラの錫(すず)いろの葉(は)をちらちらひるがえし、ふもとの草が青い黄金(きん)のかがやきをあげますと、その二つのうずのしゅげの銀毛(ぎんもう)の房(ふさ)はぷるぷるふるえて今にも飛(と)び立ちそうでした。
 そしてひばりがひくく丘(おか)の上を飛(と)んでやって来たのでした。
 「今日は。いいお天気です。どうです。もう飛(と)ぶばかりでしょう」
 「ええ、もう僕(ぼく)たち遠いとこへ行きますよ。どの風が僕(ぼく)たちを連(つ)れて行くかさっきから見ているんです」
 「どうです。飛(と)んで行くのはいやですか」
 「なんともありません。僕(ぼく)たちの仕事(しごと)はもう済(す)んだんです」
 「こわかありませんか」
 「いいえ、飛(と)んだってどこへ行ったって野はらはお日さんのひかりでいっぱいですよ。僕(ぼく)たちばらばらになろうたって、どこかのたまり水の上に落(お)ちようたって、お日さんちゃんと見ていらっしゃるんですよ」
 「そうです、そうです。なんにもこわいことはありません。僕(ぼく)だってもういつまでこの野原にいるかわかりません。もし来年もいるようだったら来年は僕(ぼく)はここへ巣(す)をつくりますよ」
 「ええ、ありがとう。ああ、僕(ぼく)まるで息(いき)がせいせいする。きっと今度(こんど)の風だ。ひばりさん、さよなら」
 「僕(ぼく)も、ひばりさん、さよなら」
 「じゃ、さよなら、お大事(だいじ)においでなさい」
 奇麗(きれい)なすきとおった風がやって参(まい)りました。まず向(む)こうのポプラをひるがえし、青の燕麦(オート)に波(なみ)をたてそれから丘(おか)にのぼって来ました。
 うずのしゅげは光ってまるで踊(おど)るようにふらふらして叫(さけ)びました。
 「さよなら、ひばりさん、さよなら、みなさん。お日さん、ありがとうございました」
 そしてちょうど星が砕(くだ)けて散(ち)るときのように、からだがばらばらになって一本ずつの銀毛(ぎんもう)はまっしろに光り、羽虫(はねむし)のように北の方へ飛(と)んで行きました。そしてひばりは鉄砲玉(てっぽうだま)のように空へとびあがって鋭(するど)いみじかい歌をほんのちょっと歌ったのでした。>

こうしておきなぐさたちは、自分はばらばらになることによって、自分のこどもたちともいうべき種に新しい命を引き継ぐ。命のリレーが行われるわけだ。

これをおきなぐさの死に焦点をあてれば、一種の自己犠牲の物語と読むことも出来る。実際そうした解釈がこれまでは多くなされてきた。末尾には、おきなぐさの小さな魂が天上へ上っていって星になったと書かれているので、こうした解釈にも理由があるといえる。

だが新しい命がはぐくまれるということに焦点を当てれば、やはり命のリレーが行われたと考えるのが自然であり、一種の生命賛歌として読むことが出来る。


    

  
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