宮沢賢治の世界
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注文の多い料理店:宮沢賢治の童話を読む


「注文の多い料理店」は、宮沢賢治が生前に公刊した唯一の童話集と題名を同じくしている。この童話集が全体的にそうであるように、この作品も、賢治の童話の中では比較的オーソドックスな構成をとっているが、その中に賢治らしい工夫とみずみずしい感性の発露が見られる。

オーソドックスというのは、この作品が日本の童話の大きな流れを踏まえているということだ。日本の童話の特徴は、子どもに対する教訓を主たる目的にしていることと、鬼の出てくる話が多いことだが、賢治のこの作品もその両方の要素を持っている。

この童話が子どもへの教訓を含んでいることは、読んですぐにわかる。東京から来た二人の若い紳士が、白熊のような二匹の犬を連れて山へ狩に出かけるが、何も獲れない。それどころか二匹の犬が山の険しさのためにめまいを起こして死んでしまう。紳士たちはそれを悲しむでもなく、犬の代金が台無しになったなどと勘定高い計算ばかりしている。

この紳士たちの前にレストランの看板が目に入ってきた。普通ならこんな山奥にレストランなどあるはずもないのに、空腹な紳士たちはご馳走にありつこうとして、レストランの中に入っていく。それは自己中心的にしか物事を見られない紳士たちの高慢心に基づいている。

紳士たちは、レストラン側から次々と注文を出されるが、それはおいしいものを食べるために必要なことだと解釈して、奥へ奥へと進んでいく。だが最後には、これらの注文はお客に食べてもらうためのものではなく、お客である紳士たちをレストランの主人がおいしく食べるための注文であったことがわかる。

紳士たちは食べられそうになって、恐怖の余り、顔が紙くずのようにくしゃくしゃになってしまったが、危機一髪のところで、死んだはずの犬が生き返ってきて助けてくれる。こうして九死に一生を得た紳士たちの顔は、東京へ帰っても決して元には戻らなかった。

このように、物語の骨格は子どもへの教訓になっている。人間は欲張りすぎててはだめですよ、うまい話には必ず落とし穴が待っています、犬たちを粗末に扱ったに関わらず最後には助けてくれたのですから、普段からもっと大事にしなければなりません、といった具合だ。

また、この物語には紳士たちを食べようとするものが出てくるが、これは日本の童話によく出てくる鬼の化身と考えることが出来る。童話の中の鬼は、主人公を食べてしまうものが多いが、ここでも主人公たちは怪物に食べられそうになるのである。

以上、この物語が日本の童話の伝統を踏まえていることは明らかだと思える。だが、もしこの物語がこの二つの要素で終わっていたとしたら、つまらない作品になっていたであろう。賢治らしい工夫と作品に込められているみずみずしい感性が、この作品を非凡なものにしているのだ。

まず、この作品が日常と非日常の接点で展開されていることに注目したい。紳士たちは日常の空間としての山の中を歩いているのだが、レストランの標識を見たことをきっかけにして、いつの間にか非日常の空間にワープしてしまう。

ナルニア国物語などに見られるように、西洋の御伽噺でも、日常と非日常とが反転するという仕掛けが方々に見られる。それが物語に独特の雰囲気をもたらすのだが、西洋文学においては日常と非日常との間には明確な分岐点がある。それは穴だったり、タンスの中だったりする、主人公はその分岐点である特殊な場所を通じて、日常の空間と非日常の空間とを行ったり来たりする。

ところが賢治の場合には、主人公はいつの間にか非日常の空間へスリップし、明確に異次元へ移行したという意識がない。非日常の空間における出来事は、日常の空間の延長で起きていると意識される。ところがそれが余りにも異常であるがゆえに、主人公たちは、実は自分たちはいつの間にか異次元に迷い込んだということを思い知らされるのだ。だから非日常空間から日常空間への帰還は、夢から醒めたように受け取られる。

これはおそらく神隠しの仕掛けによく似ているのだろう。神隠しにあった子どもは、いつの間にかこの世ならぬ世界をさまよい、夢から醒めたような気分で現実に引き戻される。それと同じような構図を、賢治はこの作品でも取り入れたのだろう。

この作品では、主人公たちは一気に現実に連れもどされるのだが、かといって今まで体験したことが、まったく現実と無関係であったとは言われていない。彼らが夢の中で脱いだ服は、現実の風景のあちらこちらに散らばったままなのだ。

次に、賢治らしい感性のみずみずしさについては、作品を読み進みながら取り上げるのがよいだろう。

<二人の若い紳士が、すつかりイギリスの兵隊のかたちをして、ぴか/\する鉄砲をかついで、白熊(しろくま)のやうな犬を二疋(ひき)つれて、だいぶ山奥の、木の葉のかさ/\したとこを、こんなことを云(い)ひながら、あるいてをりました。
「ぜんたい、こゝらの山は怪(け)しからんね。鳥も獣も一疋も居やがらん。なんでも構はないから、早くタンタアーンと、やつて見たいもんだなあ。」
「鹿(しか)の黄いろな横つ腹なんぞに、二三発お見舞まうしたら、ずゐぶん痛快だらうねえ。くる/\まはつて、それからどたつと倒れるだらうねえ。」
 それはだいぶの山奥でした。案内してきた専門の鉄砲打ちも、ちよつとまごついて、どこかへ行つてしまつたくらゐの山奥でした。
 それに、あんまり山が物凄(ものすご)いので、その白熊のやうな犬が、二疋いつしよにめまひを起して、しばらく吠(うな)つて、それから泡を吐いて死んでしまひました。
「じつにぼくは、二千四百円の損害だ」と一人の紳士が、その犬の眼(ま)ぶたを、ちよつとかへしてみて言ひました。
「ぼくは二千八百円の損害だ。」と、もひとりが、くやしさうに、あたまをまげて言ひました。>

物語はこのような書き出しで始まる。二人の紳士と、二匹の白熊のような犬、そして本職の鉄砲打ちといった具合に登場人物が設定され、二人の紳士の性格が短い言葉で的確に描写される。その描写は感覚的なイメージに満ちたものであり、子どもの想像力に訴えかけるところがある。擬態語(オノマトペ)を効果的に使うことによって、そうした感覚的な効果を高めているのが、賢治の文章の大きな特徴だ。

さびしい山の中に二人きり取り残された紳士たちは、心細くなって帰ろうとするが、道を見失ってしまう。そうこうするうち、レストランの看板が目に入ってくる。普通ならこんな山奥にレストランなどあるはずもないが、空腹な二人は、おかしいとは思いながら、もしかしたらおいしいものが食べられるかもしれないと、一縷の望みをもってレストランの中に入っていく。

このレストランが、先に述べた日常と非日常との接点をなす仕掛けであることは、用意に納得されるだろう。だからこそ賢治は、オノマトペを効果的に使って、非日常世界が口を開いて待っていることを、読者に感じさせているのだ。

<風がどうと吹いてきて、草はざわざわ、木の葉はかさかさ、木はごとんごとんと鳴りました。>

こんな描写を読めば、どんな読者でも、これから日常的な世界とは異なった、別の世界が待っているのに違いないと、直感するだろう。読者のこうした想像力に訴えかけるところが、賢治の童話の特徴なのだ。

レストランの中に入っていくと、何重もの扉が控えていて、それぞれの扉には変な注文が書かれている。次のようなものだ。

「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」

「ことに肥(ふと)つたお方や若いお方は、大歓迎いたします」

「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」

「注文はずゐぶん多いでせうがどうか一々こらえて下さい。」

「お客さまがた、こゝで髪をきちんとして、それからはきものの泥を落してください。」

「鉄砲と弾丸(たま)をこゝへ置いてください。」

「どうか帽子と外套(ぐわいたう)と靴をおとり下さい。」

「壺のなかのクリームを顔や手足にすつかり塗つてください。」

「クリームをよく塗りましたか、耳にもよく塗りましたか、」

「料理はもうすぐできます。
 十五分とお待たせはいたしません。
 すぐたべられます。
 早くあなたの頭に瓶(びん)の中の香水をよく振りかけてください。」

「いろいろ注文が多くてうるさかつたでせう。お気の毒でした。
 もうこれだけです。どうかからだ中に、壺(つぼ)の中の塩をたくさ
 んよくもみ込んでください。」

これらの注文が実は、お客においしく食べてもらうためのものではなく、かえってお客をおいしく食べるためのものだったことを、二人の紳士は思い知らされる。最初は空腹を満たす期待から、次第に疑問が深まる過程を経て、最後には真相を思い知らされる、そういう紳士たちの心の動きと、場面の転換が、読むものの想像力に訴えかけながら、先へ先へと進んでいく。

そしてクライマックスがやってくる。

「いや、わざわざご苦労です。
 大へん結構にできました。
 さあさあおなかにおはひりください。」
と書いてありました。おまけにかぎ穴からはきよろきよろ二つの青い眼玉(めだま)がこつちをのぞいてゐます。
「うわあ。」がたがたがたがた。
「うわあ。」がたがたがたがた。
 ふたりは泣き出しました。

「おなかにはいりなさい」とはレストランの中に入れというより、主人の腹の中に納まれということだ。真相を知ってパニックに陥る紳士たちに、レストラン側はなおも残酷な言葉を浴びせかける。

「おい、お客さん方、早くいらつしやい。いらつしやい。いらつしやい。お皿(さら)も洗つてありますし、菜つ葉ももうよく塩でもんで置きました。あとはあなたがたと、菜つ葉をうまくとりあはせて、まつ白なお皿にのせる丈(だ)けです。はやくいらつしやい。」
「へい、いらつしやい、いらつしやい。それともサラドはお嫌ひですか。そんならこれから火を起してフライにしてあげませうか。とにかくはやくいらつしやい。」
 二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしやくしやの紙屑(かみくづ)のやうになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるへ、声もなく泣きました。
 中ではふつふつとわらつてまた叫んでゐます。
「いらつしやい、いらつしやい。そんなに泣いては折角のクリームが流れるぢやありませんか。へい、たゞいま。ぢきもつてまゐります。さあ、早くいらつしやい。」
「早くいらつしやい。親方がもうナフキンをかけて、ナイフをもつて、舌なめずりして、お客さま方を待つてゐられます。」
 二人は泣いて泣いて泣いて泣いて泣きました。

ここでは同じ言葉の繰り返しが、事態の切迫性をよく伝えている。賢治の童話は言葉の繰り返しやオノマトペの効果的な使用によって、読者の想像力を活性化させながら物語を進めていく。そこが、従来型の童話とは著しく異なるところなのだ。





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