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フランドン農学校の豚:宮沢賢治の童話を読む


宮沢賢治がヴェジタリアンだったことはよく知られている。賢治は熱心な仏教徒だったから、殺生戒に強く影響されていたこともあろうが、それにしては異常なほど動物の肉を食うことを控えた。その異常さが、食べ物というものに対する過敏な反応を呼び起こし、それがもとで栄養失調に陥ることもあった。

だが殺生戒の教えがあるからといって、肉食そのものを否定するのは現実的ではない。少なくとも他人に対して強制することはできない、そのことも賢治はわきまえていた。

人間を含めた生物界というものは、食物連鎖によって結びついている。生き物の間には、食う、食われるの関係があり、どんな生き物もこの連鎖の中で生きている。賢治はこの連鎖を自然の摂理として認めたうえで、それでもなお、それを当然のことと受け流すのではなく、食うものと食われるものとの間に成立するある特殊な関係に注目すべきであると考える。

その関係を賢治は、殺し合いではなくて生かしあいとして捉える。食うものの立場からすれば、捕食行動はじぶんより弱いものを殺すことを意味し、弱いものにとっては殺されることを意味する。だが視点を変えてみれば、強いものは弱いものを食うことによって弱いものに生かされているといえる、また弱いものは強いものに食われることによって強いものを生かしているといえる、これが生かしあいの精神である。

そうはいっても、食われるものの立場からすれば、たとえ他者を生かすために有意義なこととはいえ、食われるために殺されることはつらい。

「フランドン農学校の豚」は、この食われるもののつらさを、食われるものの視点にたって描いた、非常にユニークな作品である。

物語の主人公はフランドン農学校に飼われている一匹の豚である。豚は品種改良のための実験動物して飼われている。どうしたら粗末な食べ物から立派な豚肉を作り出すことが出来るか、農学校ではこの豚を実験台にして研究しているのだ。幸いなことに研究は順調で、豚は丸々と太っていく。それを学生たちが感心してみているので、豚のほうも誇らしい気分になったりする。

そうこうするうち、豚が肉にされる日が近づいてきた。ところが殺される前の月になって、ひとつの布告が発令されていた。それは家畜撲殺同意調印法といって、家畜を殺すには家畜自身の死亡承諾書を必要とするというものだった。

奇想天外なアイデアである。その意味するところは、殺されるものの同意がなければ殺してはならないということだ。しかし常識にとらわれていてはなかなか思いつかないこの考えも、賢治の生かしあいの精神からすれば、そう不自然ともいえない。賢治にとって動物を殺して食うことには、自分たちがその動物によって生かされるという自覚がなければならない。そうでなければ、ただの殺戮と違わないことになる。家畜の死亡同意をとるということは、家畜に生かされているという自覚を形に表すことなのだ。

豚から死亡承諾書をとるのは校長の役目である。校長は機会をうかがって豚を説得し、承諾書に判を押させようとする。その過程における校長と豚のやり取りが、この童話にとっての核心部分である。

校長が豚のところに最初にやってきたときは、豚があまりにもしょげた様子をしているので、あきらめて帰ってしまう。豚がしょげていたのは、自分の食べ物の中に仲間の体の断片が入っているのを見つけたからだ。

二度目にやってきたときには、死亡承諾書を豚の目の前に突きつけて、それに判を押すように迫った。校長はなんとかして豚を説得しようとする。

<「実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食(こじき)でもね。」
「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。
「また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏(にわとり)でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣(かげろう)のごときはあしたに生れ、夕(ゆうべ)に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」
「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑(おか)しいが、まあ私の処(ところ)ぐらい、待遇(たいぐう)のよい処はない。」
「はあ。」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰(もら)えまいか。」
「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。
「それはほんの小さなことだ。ここに斯(こ)う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀(ぎ)永々御恩顧(ごおんこ)の次第(しだい)に有之候儘(これありそうろうまま)、御都合(ごつごう)により、何時(いつ)にても死亡仕(つかまつ)るべく候年月日フランドン畜舎(ちくしゃ)内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿(どの) とこれだけのことだがね、」>

校長の勢いにあおられて、豚はたじたじとなるが、なかなか納得することが出来ない。死亡とは自分にとってどういうことなのか、納得できないでいるのだ。

<豚は眉(まゆ)を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺(なが)めていた。校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐(こわ)かった。とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。
「何時にてもということは、今日でもということですか。」
 校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。
「まあそうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」
「でも明日でもというんでしょう。」
「さあ、明日なんていうよう、そんな急でもないだろう。いつでも、いつかというような、ごくあいまいなことなんだ。」
「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。」豚は又(また)金切声で斯うきいた。
「うん、すっかりそうでもないな。」
「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」豚は泣いて叫(さけ)んだ。
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫(ねこ)にさえ劣(おと)ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股(おおまた)に小屋を出て行った。>

豚は死亡ということが、殺されてこの世から消えてしまうことを直感したのだ。消えてしまったあとには、豚にとっては何も残らない。賢治は豚に拒絶させた理由をそう訴えているのだろう。

もし豚に、自分の死亡が、人間のみならず自分にとっても意味のあることだと考えることが出来たら、豚は進んで同意したかもしれない。豚は生かしあいの精神にのっとって、意味のある死に方をするわけだから。賢治はそういっているようだ。

三度目にいたって校長は、半ば強制的に判を押させる。というのも、ショックを受けた豚が不安のあまり食欲をなくし、みるみる痩せてしまったからで、急がないと肉が売れなくなってしまうからだ。

<「おおい、いよいよ急がなきゃならないよ。先頃(せんころ)の死亡承諾書ね、あいつへ今日はどうしても、爪判を押して貰いたい。別に大した事じゃない。押して呉れ。」
「いやですいやです。」豚は泣く。
「厭(いや)だ? おい。あんまり勝手を云うんじゃない、その身体(からだ)は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ。これからだって毎日麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の、粉五合ずつやるんだぞ、さあいい加減に判をつけ、さあつかないか。」
 なるほど斯(こ)う怒(おこ)り出して見ると、校長なんというものは、実際恐いものなんだ。豚はすっかりおびえて了(しま)い、
「つきます。つきます。」と、かすれた声で云ったのだ。>

こうして豚はとうとう判を押してしまうのだが、豚に同意する気持ちを起こさせたのは、恐怖感もさることながら、「その身体(からだ)は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ。」という殺し文句だった。

豚は自分を育ててくれた恩義をたてにとられたのだ。その恩義を袖にすることは、豚といえども倫理にそむいた行為だと感じたからなのだ。

この辺は恩讐や借金に縛られていた当時の農民の苦境と相通じるものがある、また自分の親の愛に両義的な感情を抱き続けてきた賢治自身にも通じるものがある。しがらみに縛られた人間社会の悲しい現実を、賢治はここで、豚の気持ちを借りて描いているように思えるのだ。

物語のラストシーンは印象的なものだ。豚は殺されるのに先立ってもう一度肥らされ、頃合を待ってから屠殺場に連れ出される。その前の晩、豚は人々の会話を聞いて、いよいよ自分の殺される日が迫っていることを悟るのだ。

<豚はこれらの問答を、もう全身の勢力で耳をすまして聴(き)いて居た。(いよいよ明日だ、それがあの、証書の死亡ということか。いよいよ明日だ、明日なんだ。一体どんな事だろう、つらいつらい。)あんまり豚はつらいので、頭をゴツゴツ板へぶっつけた。>

運命が定まると、農場の人たちは屠殺の準備に取り掛かる。その辺の描写は鬼気迫るものがある。こうしていよいよその瞬間がやってくる。

<俄(にわ)かにカッと明るくなった。外では雪に日が照って豚はまぶしさに眼を細くし、やっぱりぐたぐた歩いて行った。
 全体どこへ行くのやら、向うに一本の杉(すぎ)がある、ちらっと頭をあげたとき、俄かに豚はピカッという、はげしい白光のようなものが花火のように眼の前でちらばるのを見た。そいつから億百千の赤い火が水のように横に流れ出した。天上の方ではキーンという鋭(するど)い音が鳴っている。横の方ではごうごう水が湧(わ)いている。さあそれからあとのことならば、もう私は知らないのだ。とにかく豚のすぐよこにあの畜産の、教師が、大きな鉄槌(てっつい)を持ち、息をはあはあ吐(は)きながら、少し青ざめて立っている。又豚はその足もとで、たしかにクンクンと二つだけ、鼻を鳴らしてじっとうごかなくなっていた。>

これではまるで、カフカの不条理小説を読んでいるような気分にさせられる。カフカの小説の主人公も、この童話に出てくる豚も、故のない暴力によって、不本意なままに殺された。カフカの主人公は「まるで犬のようだ」とつぶやきながら死んでいく。一方豚はもともと犬に匹敵する生き物とも思われていない。

豚はやはり納得できないままに死んでいったのだ。だからこんなにも救いのない死に方をしたのだ、賢治はそういっているのだろう。

<一体この物語は、あんまり哀(あわ)れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎(きゅうしゃ)のうしろに積みあげられた。雪の中に一晩漬(つ)けられた。
 さて大学生諸君、その晩空はよく晴れて、金牛宮もきらめき出し、二十四日の銀の角、つめたく光る弦月(げんげつ)が、青じろい水銀のひかりを、そこらの雲にそそぎかけ、そのつめたい白い雪の中、戦場の墓地のように積みあげられた雪の底に、豚はきれいに洗われて、八きれになって埋(うず)まった。月はだまって過ぎて行く。夜はいよいよ冴(さ)えたのだ。>


    

  
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