宮沢賢治の世界
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鈴谷平原:宮沢賢治の詩を読む


オホーツク挽歌の一連の作品は、宮沢賢治にとっては、死んだ妹トシの魂の行方を捜す旅でもあった。この旅の間中賢治はトシの魂のことを考え続けながら、宗谷海峡を渡って樺太に至り、そこの広大な自然と雄大な天空を眺めつつ、この宇宙のどこにトシがいるのだろうと、問い続けた。

そして賢治はついに、それを発見したようなのだ。

賢治は銀河の星々を眺めながら、その星の光が数万年前に発せられたものであることを思うにつけ、地球の出来事も他の星の住人にとっては、数万年後に見られるようになるかもしれない、とそう感じた。だから地球という限られた世界の中では消えてしまったと感じられることも、宇宙全体という一段高い時限にあっては、消えることなく保存される。それがどこであるかは、とりあえずはわからぬが、きっとそうに違いないのだ。

賢治はまたこの旅のなかで、古代の標本類をいくつか集めたようなのだが、それらの標本ははるかな昔のできごとが、形こそ変えていても、現前しているのだと考えることができる。自分たちはこうした標本を通じて、古代の出来事に思いを馳せることができるのだ。

こうしたことをきっかけにして、賢治はトシもまた、この地球の中の、わたしという現象の周りでは、消えてしまったのかも知れぬが、より高い次元の中ではありのままに保存され、現象することを続けているのだと考えた。

その高い次元の世界を、人間は感覚器官としての自分の目では見ることはできぬかも知れぬが、少なくとも心の目では見ることはできる。それは、銀河の宇宙空間のどこかに現在しているに違いないのだ。

人はその高い次元の存在を、宗教的な感情を以て、天国などというかもしれない。天国という言葉はそれとして、その存在はいまを生きている人間にとって、決して無縁なものではない。人は心の持ちよう次第で、死んでしまったものとの間に、心の交流をすることが可能だ。

このように感得した賢治は、自分の心の旅がやっと、ひとつの成果に結びついたことに、ほっとした。オホーツク挽歌を締めくくる「鈴谷平原」は、そんな賢治の思いが、すなおに表れている作品なのである。

  蜂が一ぴき飛んで行く
  琥珀細工の春の器械
  蒼い眼をしたすがるです
     (私のとこへあらはれたその蜂は
      ちやんと抛物線の図式にしたがひ
      さびしい未知へとんでいつた)

賢治は鈴谷平原の伸び広がる風景の中に、ひとり座っている。そこへ蒼い眼をしたすがる(蜂の古名)が飛び、地球の法則に従った運動をしているが、やがてさびしい未知へと去っていく。未知はわたしにとっては知ることのできない世界だが、宇宙全体という広い次元の中では、保存されているものである。

  チモシイの穂が青くたのしくゆれてゐる
  それはたのしくゆれてゐるといつたところで
  荘厳ミサや雲環(うんくわん)とおなじやうに
  うれひや悲しみに対立するものではない
  だから新らしい蜂がまた一疋飛んできて
  ぼくのまはりをとびめぐり
  また茨や灌木にひつかかれた
  わたしのすあしを刺すのです

チモシイ(牧草の一種)が青くたのしくゆれているが、それが青く楽しく感じられるのは、わたしという現象の中のできごとだ。だがその現象をこえて、世界は自立的に動き続ける。だからわたしは思いもかけず、蜂に素足を指される羽目になるのだ。

  こんなうるんで秋の雲のとぶ日
  鈴谷平野の荒さんだ山際の焼け跡に
  わたくしはこんなにたのしくすわつてゐる
  ほんたうにそれらの焼けたとゞまつが
  まつすぐに天に立つて加奈太式に風にゆれ
  また夢よりもたかくのびた白樺が
  青ぞらにわづかの新葉をつけ
  三稜玻璃にもまれ
     (うしろの方はまつ青ですよ
      クリスマスツリーに使ひたいやうな
      あをいまつ青いとどまつが
      いつぱいに生えてゐるのです)

平原の中に座っているわたしの周りには広大な風景が続いている。その中にとど松や白樺が天を目指してたっている。木々のもつ垂直のイメージは、いわば宇宙樹のようでもあり、地上と天空とを媒介する聖なるイメージだ。

  いちめんのやなぎらんの群落が
  光ともやの紫いろの花をつけ
  遠くから近くからけむつてゐる
     (さはしぎも啼いてゐる
      たしかさはしぎの発動機だ)

ヤナギランが咲き乱れ、そのようすが暖かい空気の中で、揺らめいているようにみえる。どこかでサワシギが泣いている。サワシギの声が発動機の音のように聞こえる。

  こんやはもう標本をいつぱいもつて
  わたくしは宗谷海峡をわたる
  だから風の音が汽車のやうだ

こうして賢治はいつとも知らず、銀河鉄道に乗ったジョヴァンニのように、自分が解放されていることを感じる。

この旅の中では、多くの標本を得ることができた。その中にはトシの存在の証となるものも含まれているに違いない。その標本を持ってこれから汽車に乗るのだ。

その汽車は風の汽車でなければならない。自分はその風の汽車に乗って、いつでもトシに会いに行くことができる。

  流れるものは二条の茶
  蛇ではなくて一ぴきの栗鼠
  いぶかしさうにこつちをみる
    (こんどは風が
     みんなのがやがやしたはなし声にきこえ
     うしろの遠い山の下からは
     好摩の冬の青ぞらから落ちてきたやうな
     すきとほつた大きなせきばらひがする
     これはサガレンの古くからの誰かだ)

風に乗って宇宙の彼方から声が聞こえてくる。その中には悠久の昔に、この樺太に生きていた人々(さがれん)の声も混じっているに違いない。

賢治はやがて、この風の汽車のイメージを拡大して、銀河鉄道のイメージを作り上げていくことになる。





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