宮沢賢治の世界
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小岩井農場(宮沢賢治の心象スケッチ):春と修羅


宮沢賢治の詩の著しい特徴は、自然の風景や心の中の揺らぎを、ありのままに連続的に描き続けていくことである。賢治はそれを心象のスケッチといっていた。

宮沢賢治はがっちりとした構想を立て、それにそって詩を書くような人ではなかった。ただ自分という現象の内外に生起するものを、飾りなく描いていくのである。その過程で、新鮮な驚きがあったり、幻想に陥ったりする。そのたびに、それを記述する彼の言葉は怪しい光を放つ。

「小岩井農場」は、そんな賢治の心象スケッチとしての特徴がもっともよく現れた作品である。非常に長大なこの詩は、冬から春へと変化する小岩井農場の風景を、逐次追いながら描き出している。読者は賢治とともに農場を歩みながら、賢治の感じたことを、自分もまた感じながら歩いているような感銘を受けるだろう。

詩は長大なものであるのに、そこには劇的な展開はほとんどない。ただただ賢治は歩きながら、自分の目に映ったこと、自分の心が感じたことを表現しているに過ぎない。ところがそれが、読むものには新鮮に聞こえる。それは賢治の感受性と言葉の使い方の非凡性による。日常的な言葉を連ねただけでは、ただの退屈な報告に陥りかねないところだ。

それにしてもなぜそうなのか。それは賢治がこの詩の中で、自分は何かを求めてここにやってきたのだからといっているからだ。その何かは、賢治にはわからない。まして賢治の詩を読んでいる読者にはなおさらわからない。わからないままに、いつか賢治自身がそれを探り当てるのではないか、そのとき読者も、探り当てられたものがいったい何なのかを始めて知って、新鮮な驚きを詩人と共有できるではないか、そんな期待があるからなのだと思う。

ともあれ賢治は久しぶりに小岩井農場を訪れる。前回来たのは冬だったが、今は春だ。農場の中はいたるところ、春の芽吹きが息づいている。賢治はそれを見て、前回とは何もかも変わっていながら、しかもなお自分の心象の中で、小岩井の自然が確固とした連続性を保ち続けていることに、新鮮な驚きを感じる。

  冬にきたときとはまるでべつだ
  みんなすつかり変つてゐる
  変つたとはいへそれは雪が往き
  雲が展(ひら)けてつちが呼吸し
  幹や芽のなかに燐光や樹液(じゆえき)がながれ
  あをじろい春になつただけだ
  それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね
  すみやかなすみやかな万法流転(ばんぼふるてん)のなかに
  小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
  いかにも確かに継起(けいき)するといふことが
  どんなに新鮮な奇蹟だらう

賢治の心象の中に現れる景色は、賢治にとってはとりあえず、意識の世界の中での主観的な現象だ。だけれどもそれは、脈絡のない一時的な現象ではなく、いかにも確かに継起している。そこが賢治にとっての驚きだった。

賢治はそこに、自分が自分の心象を通じて世界と結ばれていると感じる。ほかの人もやはり同じように感じているに違いない。わたくしの心象の中で他の人が確かな継続性をもっているように、わたしも他の人の心象のなかで、たしかな継続性をもっているにちがいない。こうして人と人とは結びつきあっているのだ。

賢治は次々とあらわれる人と出会うごとに、その出会いの不思議さを歌い続けているかに見える。しかしときに、その不思議な感じが幻想に変わることがある。賢治の幻想については前稿で述べたところだが、この作品でもやはり幻想をみる。賢治は最後のパートで、この幻想を描く。

  すきとほつてゆれてゐるのは
  さつきの剽悍(へうかん)な四本のさくら
  わたくしはそれを知つてゐるけれども
  眼にははつきり見てゐない
  たしかにわたくしの感官の外(そと)で
  つめたい雨がそそいでゐる

さっきまで春の光に溢れていた農場はいつしか雨にかわる。芽吹きのみずみずしさに満ちていた四本の桜が、いまでは関心を引くこともない。この風景の変化とともに、賢治の心の中も劇的に変化する。

   (天の微光にさだめなく
    うかべる石をわがふめば
    おゝユリア しづくはいとど降りまさり
    カシオペーアはめぐり行く)
  ユリアがわたくしの左を行く
  大きな紺いろの瞳をりんと張つて
  ユリアがわたくしの左を行く
  ペムペルがわたくしの右にゐる
  ...............はさつき横へ外(そ)れた
  あのから松の列のとこから横へ外れた

ここでいきなり子供たちの名前が出てくる。それは賢治がかつて童話の中で描いたことのある、なつかしい子供たちの名前だ。その子供たちがいま、小岩井上場を歩いている賢治の前に現れる。賢治にはそれが、幻想の中でも出来事のように映る。

     幻想が向ふから迫つてくるときは
     もうにんげんの壊れるときだ
  わたくしははつきり眼をあいてあるいてゐるのだ
  ユリア ペムペル わたくしの遠いともだちよ
  わたくしはずゐぶんしばらくぶりで
  きみたちの巨きなまつ白なすあしを見た
  どんなにわたくしはきみたちの昔の足あとを
  白堊系の頁岩の古い海岸にもとめただらう

賢治は自分が幻想を見ているのだということを意識している。だがそれを打ち消そうとはしない。むしろその幻想にふけることを、自然なこととしている。

それはこの子供たちと出会うことが、自分が何かを探して小岩井農場までやってきて、雨の中をこうして歩いていることの、そもそもの目的であったことを、賢治が気づいているからなのだと思う。

     あんまりひどい幻想だ
  わたくしはなにをびくびくしてゐるのだ
  どうしてもどうしてもさびしくてたまらないときは
  ひとはみんなきつと斯ういふことになる
  きみたちとけふあふことができたので
  わたくしはこの巨きな旅のなかの一つづりから
  血みどろになつて遁げなくてもいいのです

それでもやはり自分が幻想を見ているという意識は、自分を不安にさせることはある。それが自分でもびくびくしているような感じとして迫ってくる。こんな幻想を見るのは、自分がさびしいからに違いないのだと思いながら。

   (ひばりが居るやうな居ないやうな
    腐植質から麦が生え
    雨はしきりに降つてゐる)
  さうです 農場のこのへんは
  まつたく不思議におもはれます
  どうしてかわたくしはここらを
  der heilige Punkt と
  呼びたいやうな気がします
  この冬だつて耕耘部まで用事で来て
  こゝいらの匂のいゝふぶきのなかで
  なにとはなしに聖いこころもちがして
  凍えさうになりながらいつまでもいつまでも
  いつたり来たりしてゐました
  さつきもさうです
  どこの子どもらですかあの瓔珞をつけた子は

賢治の幻想は風景の色をもかえる。賢治はこの風景が非常に清いものだと感じ、それをder heilige Punkt(聖なる点)と呼びたいと感じる。

     そんなことでだまされてはいけない
     ちがつた空間にはいろいろちがつたものがゐる
     それにだいいちさつきからの考へやうが
     まるで銅版のやうなのに気がつかないか
  雨のなかでひばりが鳴いてゐるのです
  あなたがたは赤い瑪瑙の棘でいつぱいな野はらも
  その貝殻のやうに白くひかり
  底の平らな巨きなすあしにふむのでせう

幻想といえども、現象としての確かさは、普通の心象と変わりはない。違った空間にはいろいろ違ったものがあるのだから、自分はそれぞれ違ったものを、ありのままにうけとめればいいのだ。

     もう決定した そつちへ行くな
     これらはみんなただしくない
     いま疲れてかたちを更へたおまへの信仰から
     発散して酸えたひかりの澱だ
    ちひさな自分を劃ることのできない
   この不可思議な大きな心象宙宇のなかで
  もしも正しいねがひに燃えて
  じぶんとひとと万象といつしよに
  至上福祉にいたらうとする
  それをある宗教情操とするならば
  そのねがひから砕けまたは疲れ
  じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと
  完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする
  この変態を恋愛といふ
  そしてどこまでもその方向では
  決して求め得られないその恋愛の本質的な部分を
  むりにもごまかし求め得ようとする
  この傾向を性慾といふ

幻想を追いながら、賢治はいつしか自分自身にむかって問いかけをする。それは自分の宗教的な感情であったり、自分の性欲であったりする。

  すべてこれら漸移のなかのさまざまな過程に従つて
  さまざまな眼に見えまた見えない生物の種類がある
  この命題は可逆的にもまた正しく
  わたくしにはあんまり恐ろしいことだ
  けれどもいくら恐ろしいといつても
  それがほんたうならしかたない
  さあはつきり眼をあいてたれにも見え
  明確に物理学の法則にしたがふ
  これら実在の現象のなかから
  あたらしくまつすぐに起て

幻想を実体のないまやかしと感じるのは、現象の背後にはその現象をもたらす本体があると考えることから起こる。もしこの本体だけが人間の寄るべき基準であるなら、本体の裏づけのない想念は空しい幻覚でしかない。自分が実際に存在していると思ってみている対象は、実体のない空虚でしかない。そう思うと、それはわたくしを恐ろしい気持ちにさせる。

  明るい雨がこんなにたのしくそそぐのに
  馬車が行く 馬はぬれて黒い
  ひとはくるまに立つて行く
  もうけつしてさびしくはない
  なんべんさびしくないと云つたとこで
  またさびしくなるのはきまつてゐる
  けれどもここはこれでいいのだ
  すべてさびしさと悲傷とを焚いて
  ひとは透明な軌道をすすむ

だが賢治の目に映る光景はたしかな手ごたえをもっていたようだ。その手ごたえの確かさが、いつしか幻想を現実のものに転化させる。幻想と現実との境界は、対象を受け取る主体の心の持ちようにかかわっているのだ。

そう心のありようを切り替えたとたん、対象は確固としたよりどころにたち、それを見るわたしはもう寂しくはない。

  ラリツクス ラリツクス いよいよ青く
  雲はますます縮れてひかり
  わたくしはかつきりみちをまがる

ラリックスとは落葉松のこと、それがいよいよ青く光っている。賢治は現実の地盤にしっかり立っていることを感じ、かっきりとした足取りで再び歩き出すのだ。

とまれこの詩は、全体を読み終わった時点で、宮沢賢治が果たして何を言おうとしたかったのか、読者にはわからずじまいのことが多いだろう。だが賢治が何かを求めて小岩井農場をわざわざ歩きにやってきたのだということ、その散歩のようなものを通じて賢治が何かを掴み取ったらしいこと、それくらいは伝わってくる。

それはおそらく、宮沢賢治の、この世に生きることへのこだわりなのかもしれない。





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