宮沢賢治の世界
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屈折率:宮沢賢治の詩を読む


宮沢賢治は自分の詩集を編むに当たって、配列を創作順にするのを原則とした。最初の詩集「春と修羅」の最初に収められた詩はだから、賢治の創作活動の出発点をなす記念すべき作品だということができる。その作品とは1922.1.6の日付を付せられた「屈折率」という詩である。

前年の1921年に賢治は、花巻を出奔して東京にいたり、そこで国柱会に入門したりして、法華経の修行を積んだ後、創作に向けての高揚感を持って故郷に帰っていた。その高揚感の中で賢治は旺盛な創作活動を始めるのだが、この作品はその最初のものであった。

この詩には、いろいろな意味で、その後の賢治の生涯を暗示させるものがある。

宮沢賢治は常に何かを求め続けながら、長いとはいえない生涯を生きた。彼の求めたものが何であったか、それは彼自身が心象スケッチと自ら呼んだ多くの詩や童話の中で展開している。このブログでは順を追ってそれらを見ていきたいと思うが、さしあたってこの処女詩ともいうべきものの中で、賢治は自分が希求しているものが何であるのか、なぜ自分はそれらを希求しなければならぬのかについて、自分自身に向かって問いかけているような気がするのだ。

  七つ森のこつちのひとつが
  水の中よりもつと明るく
  そしてたいへん巨きいのに
  わたくしはでこぼこ凍つたみちをふみ
  このでこぼこの雪をふみ
  向ふの縮れた亜鉛(あえん)の雲へ
  陰気な郵便脚夫(きやくふ)のやうに
      (またアラツデイン 洋燈(ラムプ)とり)
  急がなければならないのか

後に書いた長い詩篇「小岩井農場」の記述からして、この詩がその前年に小岩井農場を訪れたときの体験を歌っていることは明らかだ。

賢治はどのような目的を持って小岩井農場を訪れたのだろうか。

「小岩井農場」と題した詩の中では、賢治は何かを求めてそこを訪れたと書いている。それが何であるかは、訪れた当人にも最初は明らかでなかったが、そこでさまざまな風景やいろいろな人と出会い、最後には、幻想の中でのこととはいえ、昔のなつかしい子供たちと再び出会うことが出来て、そこに心の平安というか、目的が達成されたことの、成就感のようなものを感じたと書いている。

それに比べれば、最初に訪れたこのときには、賢治は何も獲るところがなかったらしい。それどころか、ますます自分に自信がなくなって、焦燥感ばかりが残ったらしい。この詩の中には、そんな不本意な気持ちが込められている。それだからこそ賢治は、もう一度小岩井農場を訪れて、その焦燥感を和らげようとしたのだろう。

賢治はこの詩の中で、七つの森のこちら側のひとつが、水の中よりも明るく広々としているのに、彼方にはもっと明るくて広々としたところがあるように思い、そちらへ向かってでこぼこ道を歩いていく。だけれどもそんな風に見えたのは、こちらの森の明るさ広さが光線の屈折率の作用によって、彼方に蜃気楼のように写っただけだということがわかる。結局自分が郵便脚夫のように急いだ努力は無駄に終わってしまったというのだ。

なぜ目の前に明るくて広いものがあるのに、あるかないかわからぬもっと別なものを求めて歩き続けねばならぬのか。

この素朴な疑問の中に、この詩のテーマと、宮沢賢治という作家の秘密が潜んでいる。





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