日本語と日本文化


宮沢賢治と法華経


鎌田茂雄「法華経の読む」を手引きにして法華経のことを考えていたら、自然と宮沢賢治のことが思い浮かんだ。賢治は法華経に深く帰依していたことで知られている。その作品の中にも法華経の影響がこだましている。そんな法華経のこだまを、賢司の作品のなかから聞き当ててみると、どんなことになるか。そんなことをふと思ったので、その思ったことをとりあえず文章にしておきたい。もとより単なる思いつきの域を出ない。

法華経の根本思想は仏国土の実現ということである。仏国土とは、仏が導き給う浄土のことを言う。どんな人でも、大乗の教えに基づき修行すれば菩薩となり、ついには成仏して仏となる。仏となった人は、自分自身のみならず彼が生きている世界のすべての人々を救う力を持っている。それゆえ、彼が成仏すると、彼が生きている世界は彼を中心にした仏国土すなわち浄土となる。単純化して言えばそういうことになろう。つまり、あの世ではなく、この世において実現する理想的世界、それが法華経のいう仏国土なのである。この世がそのままに浄土となる、しかもその浄土を導く仏には、どんな人でもなれる可能性がある。それ故、人々はおのれ自ら成仏しつつ、彼が生きている世界の一切衆生を救うべくつめねばならない。

宮沢賢治が作品の中で主張したのは、まずはこの仏国土の実現ということであった。賢治が仏国土をとりあげた例としてよく引かれるのは「銀河鉄道の夜」のなかの次の一節である。

「だけどあたしたちもうここで降りなけぁいけないのよ。ここ天上へ行くとこなんだから。」女の子がさびしそうに云いました。
「天上へなんか行かなくたっていいじゃないか。ぼくたちここで天上よりももっといいとこをこさえなけぁいけないって僕の先生が云ったよ。」

銀河鉄道に途中から乗ってきた姉と弟に向かって、ジョバンニがずっと一緒に行こうよ、と誘ったところ、姉は自分たちはこれから天国へ行くのだからここで降ります、と答えたのに対して、ジョバンニは天上などではなく地上ですばらしい世界つまり仏国土を実現しようと言っている場面である。このジョバンニの言葉の中に、賢治は法華経の説く仏国土の実現への希望を述べているととらえることが出来るわけである。

その仏国土とは具体的にどのようなものなのか。「ポラーノの広場」はそれを問題にしている。ポラーノの広場にいる人々は、どこか別の世界で理想郷を建設しようとつとめるが、なかなかそれは実現しない。何故なら理想郷とは、彼等がいまいるポラーノの広場そのものなのだから、というのがこの童話の根本的な内容である。この童話は、賢治晩年の四つの長編童話のひとつだが、これらの長編童話にはいずれにも、法華経の言葉がこだましている。そのこだまの中で、もっとも法華経の核心に迫るのが、「ポラーノの広場」における理想郷実現への希求と考えることが出来よう。

以上は、法華経の核心についての賢司の捉え方が垣間見えるところだが、賢治は外に、法華経のいくつかの重要な経典について、その内容を童話のなかに盛り込んでいる。

まず、「提婆達多品」。これは、どんな人でも成仏できることの例として、提婆達多という悪人が成仏したということを説いている。賢治は、「よだかの星」において、同じようなテーマを追求した。「よだかの星」に出てくるよだかは、いわゆる悪人ではないが、世の中から疎まれ自分を嫌悪しているという点で悪人に通じるところがある。そのよだかが星になると言うのは、成仏の隠喩であろう。つまり、よだかが星になるということを通じて、どんなものでも成仏できるのだという考えを、賢治はこの童話のなかで語っているのだと考えられる。

星になるためには、よだかは星と一体にならなければならなかった。ということは、己の身を火で焼きつくすという行為が介入しているわけである。ここで、この童話には焼身というもう一つのテーマが潜んでいるということになる。法華経のなかで焼身を取り上げているのは「薬王菩薩本事品」である。このお経は、衆生救済のための自己犠牲として菩薩の焼身を取り上げているわけだが、賢治の童話のなかで焼身とそれによる衆生の救済というテーマに密接なかかわりがあるのは、「グスコーブドリの伝記」である。

この童話の中で、グスコーブドリは自分が火山の中に飛び込むことで、火山の噴火を防止し、人々を危険から救ったということになっている。つまり焼身という自己犠牲が衆生救済につながるという物語であるわけで、その骨格は「薬王菩薩本事品」と全く異ならない。賢治がこの美しい童話を、「薬王菩薩本事品」をもとにして構想したことは疑いを容れないと思う。

焼身といえば、いまでも東南アジアの仏教圏の中でたびたび起きている。東南アジアの国々の仏教は基本的には小乗仏教であり、それがなぜ焼身による自己犠牲を推奨するのか、研究に値するところだと思う。

賢治には「雨ニモマケズ」に始まる、自訓のような有名な文章がある。この文章は、自分自身に課した掟だと解するのが妥当と思えるのだが、その内容を精査すると、法華経の中の「常不軽菩薩品」の教えとよく似ている。

「常不軽菩薩」の常不軽とは、「常に人を軽んぜず」という意味であるが、そのとおりこの菩薩は、身を粉にして人々を礼拝して歩いていた。なぜ礼拝するかと言えば、人々に自分自身の価値を知ってもらい、成仏できるように薦めたいからであった。あなたはこんなにもすばらしい人です、それゆえわたしはあなたを礼拝するのです、あなたには礼拝される資格があるばかりでなく、成仏する資格もある、ですから菩薩の道を歩みなさい、そう言って人々を励まして歩くというのが、「常不軽菩薩」の自分自身に課した掟であった。その掟と、賢治が「雨ニモマケズ」の中で自分に課した掟は非常によく似ている。

賢治は言う、
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ッテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクヮヤソショウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ

これは礼拝ではないが、人々を励ましていることは、「常不軽菩薩」と同じである。自分の身を粉にしているところは、続く部分で次のように書かれる、
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
そして最後は、
  サウイフモノニ
  ワタシハナリタイ
と結んでいる。つまり賢治は、自分自身が「常不軽菩薩」のようになりたいと言っているわけである。


    

  
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