宮沢賢治の世界
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鳥を捕る人:銀河鉄道の夜


銀河鉄道の中で展開するさまざまなシーンの中で、「鳥を捕る人」の挿話は、銀河鉄道の走っている世界が、この世の三次元空間の延長ではなく、自由自在な異次元の世界であることを最も強く感じさせるものだ。そこでは空間と時間とが、地球上の法則を無視して展開する。

鳥を捕る人はジョヴァンニたちが気づかないうちに、いつの間にか列車の中に座っていた。そしてジョヴァンニたちが赤いひげの男からどこへ行くのかとたずねられ、いったい自分たちがどこへ行こうとしているのかわからないもどかしさを感じているときに、声をかけてくる。

<「わっしはすぐそこで降ります。わっしは、鳥をつかまえる商売でね。」
「何鳥ですか。」
「鶴や雁(がん)です。さぎも白鳥もです。」
「鶴はたくさんいますか。」
「居ますとも、さっきから鳴いてまさあ。聞かなかったのですか。」
「いいえ。」
「いまでも聞えるじゃありませんか。そら、耳をすまして聴(き)いてごらんなさい。」
 二人は眼(め)を挙げ、耳をすましました。ごとごと鳴る汽車のひびきと、すすきの風との間から、ころんころんと水の湧(わ)くような音が聞えて来るのでした。>

その男は風呂敷包みのなかから、さっき捕ったばかりだという雁をとりだすと、それをちぎって二人の前に差し出し、食べてみるように薦める。

<ジョバンニは、ちょっと喰べてみて、(なんだ、やっぱりこいつはお菓子(かし)だ。チョコレートよりも、もっとおいしいけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。この男は、どこかそこらの野原の菓子屋(かしや)だ。けれどもぼくは、このひとをばかにしながら、この人のお菓子をたべているのは、大へん気の毒だ。)とおもいながら、やっぱりぽくぽくそれをたべていました。>

そのうち男はそわそわしながら列車を降りて、川原の上に行き、折からたくさん飛んできた鷺を捕まえにかかる。ジョヴァンニたちはその様子を列車の中から見ているが、男は狩が終わると不思議なことにいつの間にか列車の中に戻ってきているのだ。

 <鳥捕りは二十疋(ぴき)ばかり、袋に入れてしまうと、急に両手をあげて、兵隊が鉄砲弾(てっぽうだま)にあたって、死ぬときのような形をしました。と思ったら、もうそこに鳥捕りの形はなくなって、却(かえ)って、
「ああせいせいした。どうもからだに恰度(ちょうど)合うほど稼(かせ)いでいるくらい、いいことはありませんな。」というききおぼえのある声が、ジョバンニの隣(とな)りにしました。見ると鳥捕りは、もうそこでとって来た鷺を、きちんとそろえて、一つずつ重ね直しているのでした。
「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか。」ジョバンニが、なんだかあたりまえのような、あたりまえでないような、おかしな気がして問いました。
「どうしてって、来ようとしたから来たんです。ぜんたいあなた方は、どちらからおいでですか。」
 ジョバンニは、すぐ返事しようと思いましたけれども、さあ、ぜんたいどこから来たのか、もうどうしても考えつきませんでした。カムパネルラも、顔をまっ赤にして何か思い出そうとしているのでした。
「ああ、遠くからですね。」鳥捕りは、わかったというように雑作なくうなずきました。>

鳥捕りはジョヴァンニたちの問いに対して、当たり前のように、自分は思ったとおりに行動することができるし、それには時間や空間の制約などは問題にならないといっているのだ。つまりここは地球上にある普通の三次元空間とは異なる世界なのだということをほのめかしているわけである。

他の乗客がそうであるように、この男もまた地上で死んだ後にこの列車に乗ってきたことは明らかだ。この男もまた、自分の行くべきところをもっているらしく、やがて列車から消えてなくなる。

幼い姉弟が自分の死んだことと、新しい世界で生まれ変わることを意識しているのに対して、この男はそんなことは殆ど意識しておらず、ごく自然に振舞っている。この男にとっては、地上も天国も、三次元の世界も異次元の世界も区別はなく、ただ現在を生きることだけが問題だといった態度を貫いているようなのである。

物語の中で、鳥捕りの出てくる部分は、他の部分とはちょっと違った趣を呈している。この部分がなくとも、物語自身には大して影響が出るとも思えない。そこをあえてエピソードとしてさしはさんだのには、賢治なりの理由があったと思われる。

このシーンの中で少なくともジョヴァンニは、どこへ行くのか、またどこから来たのかという問いを向けられている。それに対してジョヴァンニは適切に答えられない。ましてなぜこの列車に乗ったのかと聞かれたならば、いっそう困惑したことだろう。

他の乗客たちにはみな、自分がどこから来てどこへ行くのか、またなぜこの列車に乗ることによってその目的を果たそうとしているのかがわかっている。銀河鉄道は、地上の三次元の世界とそれとは異なった異次元の世界とを結ぶ媒介者であり、ひとはそれに乗ることによって、異次元の世界で生まれ変われるのだ。

ところがジョヴァンニは死んだわけではないから、銀河鉄道に乗ることには必然的な理由はない。また、自分の意思に基づく行為でもない。彼は自発的にではなく、偶発的に銀河鉄道の乗客になってしまったともいえる。

地上での生命が終わってはおらず、今でも生きているに違いない存在者が、銀河鉄道という異次元の世界へ運んでくれる乗り物に入り込むということは、尋常なことではない。それは異常な体験だが、だからといって了解を拒むような厳しい体験でもない。なぜなら自分が死んだことをおそらく余り意識していないこの鳥捕りでさえ、その体験を自然に受け止めているからだ。

異次元というのは人間の了解を拒むような険しい異物ではなく、心の持ちようによっては誰にでも体験できることなのだ。どうもそんなことを、賢治はこの挿話によって言いたかったように受け取れるのだ。





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