宮沢賢治の世界
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北十字とプリオシン海岸:銀河鉄道の夜


銀河鉄道の旅はジョヴァンニたちにさまざまな眺めと経験をもたらしてくれる。そのひとつひとつが象徴的な意味合いを帯びている。一方銀河鉄道に乗り込んでくるひとびとは、親友のカンパネルラを含めて、みなこの世では死んだ人たちである。彼らは銀河鉄道での旅をしながら、自分がこれから赴き、そこで生きていくべき場所を求めているのだ。

そのひとつが北十字という星だ。おそらく北極星をイメージしているのだろう。北極星はこの世で生きているものにとっても導きの星だから、死んだ後でもそこで暮らしたいと思う人がいて不思議ではない。

賢治は異次元の見えない世界を、天空の星で代替させようとしたのだと思う。あるいはその星を媒介にして、異次元をイメージしたかったのかもしれない。

さて列車がこの星に近づくと  

<俄かに、車のなかが、ぱっと白く明るくなりました。見ると、もうじつに、金剛石(こんごうせき)や草の露(つゆ)やあらゆる立派さをあつめたような、きらびやかな銀河の河床(かわどこ)の上を水は声もなくかたちもなく流れ、その流れのまん中に、ぼうっと青白く後光の射(さ)した一つの島が見えるのでした。その島の平らないただきに、立派な眼もさめるような、白い十字架がたって、それはもう凍った北極の雲で鋳(い)たといったらいいか、すきっとした金いろの円光をいただいて、しずかに永久に立ってゐるのでした。
「ハルレヤ、ハルレヤ。」前からもうしろからも声が起りました。>

列車はこの後南へ南へと進路をとることになるのだが、その間に乗ってきた幼い姉弟とその後見人の青年は南十字星で降りることになるだろう。

列車が白鳥の星に着くと、ここでも大勢の人たちが降りていく。ジョヴァンニとカンパネルラも列車を降りて散歩するが、そのうちプリオシン海岸というところにつく。そこでは考古学者のような人たちが、何かを掘っているのだった。その中の大学士がジョヴァンニたちに話しかける。

「くるみが沢山あったらう。それはまあ、ざっと百二十万年ぐらい前のくるみだよ。ごく新らしい方さ。ここは百二十万年前、第三紀のあとのころは海岸でね、この下からは貝がらも出る。いま川の流れているとこに、そっくり塩水が寄せたり引いたりもしてゐたのだ。このけものかね、これはボスといってね、おいおい、そこつるはしはよしたまへ。ていねいに鑿(のみ)でやってくれたまへ。ボスといってね、いまの牛の先祖で、昔(むかし)はたくさん居たさ。」
「標本にするんですか。」
「いや、証明するに要(い)るんだ。ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年ぐらい前にできたという証拠(しょうこ)もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。わかったかい。」

大学士が証明しようとしていることは、120万年前の地層がここにあるということだった。これは何を意味しているのだろうか。

賢治にとって、人間の魂が永遠なのは、時間というものが過ぎ去って跡を残さぬものではなく、過ぎ去ったものは過去という巨大な集積物としてどこかに蓄積保存されているから、なりたつものなのだ。それは空間についてもいえる。ある空間はそれを見た一瞬にそれを見る人の眼にとって存在するだけではない、そこには過ぎ去った過去が堆積している。その巨大な過去の集積物を、この学者は証明しようとしているのである。

賢治は詩「小岩井農場」の中で数百年前の過去の星の光がいまに現存して現れているように、いまの地球の現在が数百年後の別の星の中で現れるといっていた。それは多次元的な視点から見れば、現在が永遠の時間の中で遍在しているということなのだ。





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