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北いっぱいの星ぞらに:宮沢賢治を読む |
宮沢賢治には星空を歌った詩が数多くある。銀河鉄道を描いた詩人だから、天空の世界には誰よりも関心が深かったのだろう。そのなかで「春と修羅第二集」に納められている「北いっぱいの星ぞらに」は、冒頭の句にあるように、それこそ空一杯に広がる星々が、明るい月の光の中できらめき動くさまを、感動をこめて歌い上げている。 賢治がこの詩を書いたのは、1924年8月17日。この日の夜、賢治は北上山地を歩き続けたのだが、その折に得たインスピレーションをそのまま詩の形に写したのだと思われる。この夜はほぼ満月で、月光が下界を照らし、賢治の行く手を明るく導いていた。 この詩を書いた一月前に、賢治は「韮露青」を書いた。やはり満月の星空を歌ったものだ。その中で賢治は、銀河の果てに見えるマゼラン星雲のひとつに、妹トシの魂のありかを見たような気持ちがしたと歌っていた。 この詩では、賢治はトシではなく、普賢菩薩に呼びかけている。「韮露青」においては、自分の妹をめぐる個人的な救済が問題となっていたのに対し、この詩ではそれが広い宗教意識へ高まっているといえなくもない。 この一月の間に、賢治の心の中に、いくばくかの発展があったことを感じさせるのだ。 北いっぱいの星ぞらに ぎざぎざ黒い嶺線が 手にとるやうに浮いてゐて 幾すじ白いパラフヰンを つぎからつぎと噴いてゐる そこにもくもく月光を吸ふ 蒼くくすんだ海綿体(カステーラ) 賢治の目の前には、星空の下に広がった北上山地の稜線が黒々と見える。それが白いパラフィンを吹いているというのは、月光が稜線のシルエットにそって漂っているさまをいうのだろう。 萱野十里もおはりになって 月はあかるく右手の谷に南中し みちは一すじしらしらとして 椈の林にはいらうとする ......あちこち白い楢の木立と 降るやうな虫のジロフォン...... 萱野十里は北上山地内にある山道の名だ。それを歩き終える頃に、月が南に差し掛かった。賢治の歩く道はブナの林へと入り込んでいき、足元からは木琴の音のような虫の声が聞こえてくる。 橙いろと緑との 花粉ぐらゐの小さな星が 互いにさゝやきかはすがやうに 黒い露岩の向ふに沈み 山はつぎつぎそのでこぼこの嶺線から パラフヰンの〔紐〕をとばしたり 突然銀の挨拶を 上流の仲間に抛げかけたり Astilbe argentium Astilbe platinicum 夜空に一対の双子星が見えたのだろう。賢治にはその二つの星がささやきあうように寄り添いながら、岩の向こうへと沈んでいくのが見え、その後からは月の光が煙のようにたゆたうのが見える。 いちいちの草穂の影さへ落ちる この清澄な味爽ちかく あゝ東方の普賢菩薩よ 微かに神威を垂れ給ひ 曾って説かれし華厳のなか 仏界形円きもの 形花台の如きもの 覚者の意思に住するもの 衆生の業にしたがふもの この星ぞらに指し給へ ......点々の白い伐株と まがりくねった二本のかつら...... ここで賢治は普賢菩薩に語りかけるのだ。ほかならぬ普賢菩薩であったのは、それが法華経の守護神としてはもちろん、女性の守護神としても、妹トシの魂を救済してくれる仏に違いなかったからである。 ひとすじ蜘蛛の糸ながれ ひらめく萱や 月はいたやの梢にくだけ 木影の窪んで鉛の網を わくらばのやうに飛ぶ蛾もある 詩の最後を賢治は流れ星のイメージで結ぶ。流れ星は賢治にとって、地上から天空への魂の旅、あるいは天空から地上への啓示の徴、そのようなものとして思われたのだ。 |
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