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どろの木の下から『春と修羅』第二集 六九 |
宮沢賢治は「春と修羅」を書き終えた後も、「心象スケッチ」と称するものを書き続けた。そのうち大正13年から14年にかけて書いたものを「春と修羅 第二集」として出版するつもりだったらしい。 結局この詩集は宮沢賢治の生前に出版されることはなかったが、賢治はこれらの詩をいつまでも大事にし、何度も推敲を重ねた。今日最終版として全集に納められた形になったのは、彼の死の直前だったと思われる。 これらの作品には、賢治の感性がいっそう伸びやかな形で表現されている。第一集の作品に時折みられる観念的な妄想はあまり見られず、体中で感じ取った自然や、内面の感情の動きが素直に表現されているものが多い。その点で、第一集の諸作品よりも、よりもむしろみずみずしいとさえ言える。 宮沢賢治がいう心象スケッチとは、時々の自分の経験をそのまま筆に書きとめたものだ。だから詩を詩として表現する定型なリズムとか技巧とかいったものを殆ど考慮してない。その時々の自分の感じ方や対象のありかたをそのまま言葉にしている感がある。それでいて、言葉の中からは、賢治特有のリズム感が聞こえてくる。 そのような賢治の作詩態度がもっともよく伺われるものとして、北上山地の連作と称される一群の詩がある。これは大正13年4月19日から20日にかけて北上山地を夜間歩行したときの経験をつづったものだ。その20日という日はあたかも「春と修羅」第一集が出版される日にあたっていた。 賢治にとっては、初めての詩集を出版することでもあり、なにかと気分の高揚があったのだろう。そんな高揚感の中で、奥深い森の中を、しかも夜通し一人歩きし、雄大な夜明けを新鮮な気持ちで迎えようと思ったのだろう。その夜明けは、詩人としての自分の門出を祝ってくれるものに違いない、そう賢治は感じたのだろう。 この一連の作品には、賢治の自然との一体感とそれによってもたらされる喜びが、あふれるように描き出されているのだ。 池上雄三の考証によれば、大正13年4月19日の夜は、満月でしかも雲ひとつない空だった。季節は春の芽吹きがはちきれようとする時期、こんな夜に賢治は北上の山に囲まれながら、一人森を歩いていくのである。 どろの木の下から いきなり水をけたてヽ 月光の中へはねあがったので 狐かと思ったら 例の原始の水きねだった 横に小さな小屋もある 栗か何かを搗くのだらう 水はたうたうと落ち ぼそぼそ青い火を噴いて きねはだんだん下りてゐる 水を落してまたはねあがる きねといふより一つの舟だ 舟といふより一つのさじだ ぼろぼろ青くまたやってゐる どろの木とは別名を泥柳ともいって、白楊のことをさす。その木の下から何か跳ね上がるのが見えたので、狐かと思ったら水杵だった。水杵とは水車小屋に取り付けられた脱穀のための装置で、外見は筧を巨大にしたものと思えばよい。先端の部分で沢の水を受ける、すると水の重みで先端は下に傾く、水は零れ落ちて筧は空になり再び起き上がる、その際に反対側が勢いよく落下する、その勢いで臼の中の穀物を脱穀するのだ。 賢治はその杵の動きを、逐一書き留めている。それを見て青い火を噴くようだと感じたのは、水しぶきが月の光を浴びて、暗闇のなかに浮き出たさまなのだろう。 どこかで鈴が鳴ってゐる 丘も峠もひっそりとして そこらの草は ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこヽろもち ひるなら羊歯のやはらかな芽や 桜草も咲いてゐたらう 道の左の栗の林で囲まれた 蒼鉛いろの影の中に 鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる 鈴は睡った馬の胸に吊され 呼吸につれふるえるのだ きっと馬は足を折って 蓐草の上にかんばしく睡ってゐる どこかで鈴のなる音が聞こえる。あたりが静かに眠り込んでいるので、鮮やかに聞こえたのだろう。暗闇のなかに一軒の家が見える。音はそこから聞こえてくる。 家は鍵なりをしている、つまり南部でよくある曲がり家だ、曲がり家には必ず馬を飼っている、だから鈴はその馬につけられているのだろう、馬の呼吸のリズムにあわせて、鈴がなっているのだろう、賢治はそう思う。 わたくしもまたねむりたい どこかで鈴と同じに啼く鳥がいる たとへばそれは青くおぼろな保護色だ 向ふの丘の影の方でも啼いている それからいくつもの月夜の峰を越えた遠くでは 風のやうに峡流も鳴る 賢治は眠気を催した、馬のように眠りたいと思う。すると鈴とよく似た鳥の鳴き声が聞こえてくる。それが鈴の音と響きあって快い演奏をする、峰を越えた向こうでは、渓流が風のような音を鳴らす。 賢治は深い森の中で深夜一人たたずみ、さまざまな音のおりなす自然の交響楽に聞き入っているかのようだ。 |
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