日本語と日本文化


宗谷挽歌:宮沢賢治「春と修羅」補遺


宮沢賢治は大正12年7月31日から8月12日にかけて、北海道を経て樺太へいたる一人旅をした。直接の目的は農学校の教え子のための就職活動だったらしいが、ほかにもうひとつ大きな目的があった。それは前年の秋に死んだ妹の、魂の行く先をたずねることだった。

この旅の中で賢治は、青森挽歌を始めオホーツク挽歌と小題のついた一連の詩を書いた。信仰上のかけがえのない同士でもあった妹トシが、死んだ後にどんな世界に生まれ変わり、そこでどんな生き方をしているのか、それが知りたい、そんな思いであふれている作品群である。

宗谷挽歌は、8月2日の深夜、稚内港を出航して樺太の大泊港にむかう連絡線「対馬丸」のなかで書かれた。霧の立ち込めた港を船がゆっくりと出ていく。背後には稚内の町が煙に咽んで見える。

賢治はひとり甲板の上に立って回想をする。その姿を見咎めた船員が近づいてくる。船員は賢治を自殺志願者だと思っているのだ。

賢治の頭の中は、脈絡もなく回転する。そのなかから突然、妹のトシに呼びかけているような声が聞こえてくる。

賢治はトシが果たして、天上や極楽世界に生まれ変われたのか、それともそうはできずに地獄や餓鬼の世界に落ちてしまったのか、そのことが気になって仕方がない。青森挽歌を書いた列車の中でも、そんなことばかり心配していたのだ。

賢治にはどうも、トシが地獄へ落ちてしまったのではないかとの不安が強まる。もしそうだったら、どうしたらよいだろう。賢治はその不安を直接トシに向かってぶつけるのだ。

  とし子、ほんたうに私の考へてゐる通り
  おまへがいま自分のことを苦にしないで行けるやうな
  そんなしあはせがなくて
  従って私たちの行かうとするみちが
  ほんたうのものでないならば
  あらんかぎり大きな勇気を出し
  私の見えないちがった空間で
  おまへを包むさまざまな障害を
  衝きやぶって来て私に知らせてくれ。
  われわれが信じわれわれの行かうとするみちが
  もしまちがひであったなら
  究竟の幸福にいたらないなら
  いままっすぐにやって来て
  私にそれを知らせて呉れ。
  みんなのほんたうの幸福を求めてなら
  私たちはこのまゝこのまっくらな
  海に封ぜられても悔いてはいけない。

賢治がかくもトシの再生先にこだわるのは、トシが賢治と離れがたく結ばれた信仰上の同志であり、したがってその信仰に対する応報についても、賢治はひとりの兄としてだけではなく、法華の道連れとしても責任がある、そう考えるからなのだ。

だからもしも、トシが本当にいくべきところではなくて、ちがったところにたどりついて、そこでさまざまな障害にあっているのだとしたら、そのことを率直に知らせて欲しい。

トシが行った道が間違った道だからといって、賢治にしてやれることはないかもしれない。だが少なくとも二人が本当の幸福を求めているならば、この真っ暗な海峡に閉じ込められていても、悔やむことはない。そんな気持ちを堅持はトシに打ち明ける。

そしてこういうのだ。

  永久におまへたちは地を這ふがいい。
  さあ、海と陰湿の夜のそらとの鬼神たち
  私は試みを受けよう。


    

  
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